「キリスト者としての苦難」

ペテロの手紙 第一 4:12ー19

礼拝メッセージ 2020.5.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神は、あなたがたを見ておられる(霊なる存在者としての主)

苦難は精錬の火である

 「キリスト者としての苦難」と題しましたが、キリスト者であろうとなかろうと、苦難は地上で生きている限り、経験せずにすますことはできません。では、キリストを信じる意味とは何であるのか、どういう恵みがあるのか、という素朴な疑問について、この箇所は一つの答えを示しています。
 以前の箇所にもありましたが、ここでもペテロは苦難がどういう性質のものであるのかを示しています。12節「あなたがたがを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません」。2つのことを指摘したいと思います。第一に、ここでは人生における苦難を「試練」と呼び、さらに「燃えさかる」と表現していることです。「試練」ということばは、そのまま「試す」という意味であり、日本語で言うと、「試して練る」という表現です。詩篇66篇10節に「神よ/まことに/あなたは私たちを試し/銀を精錬するように/私たちを錬られました」と書いています。ペテロの手紙では「燃えさかる試練」と書かれており、この「燃えさかる」というのは、直訳すると「火災」で、燃える炎のことです。銀を精錬するために、より純度の高いもの、良いものへとしていくために、神は火を用いられる、「苦しみの炉」で精錬されるということが、ここで言われていることです。

苦難は神にとって見知らぬものではない

 第二に、このような苦難に出遭った時に、それを不審に思ってはいけないということです。でも、この「不審に思うな」というのは、命令と言うよりも、励ましのことばです。何かの災いに遭遇し、苦しみを抱えるのは、その多くが予期しないことだったからでしょう。わかっていたら用心して、そんなことにならないように予防策を講じることができたでしょう。でも、苦難という事柄そのものの中に、なぜこんなことが私に起こったのかという、心の中をひどく揺さぶり、掻き乱し、混乱させてしまう性質が含まれています。「不審に思う」(クセニゾー)ということばは、ユニークな表現です。もともとこの語は、「見知らぬ人を家に招き入れて、もてなす」という意味のことばです。「何か思いがけないこと」と訳された語もそのことばの名詞形で「見知らぬ人」(クセノス)という意味です。ですから、「見知らぬ人を見知らぬ人として家に迎えてはならない」と言い換えられます。あなたがたにとっては「見知らぬ人」「不審な存在」に見えるかもしれませんが、神の目にはその正体が明らかであり、「わたしはすべてを知っているので、あわてることはない」と言われているのです。
 14節で、「栄光の御霊」「神の御霊」と書かれて、神は霊である存在者として証しされています。「霊」とは、私たちの肉眼では見えなくても、人格を持ったお方として確かにここに存在して、私たちとともにおられて、私たちを見ておられるということです。12節はギリシア語テキストでは「あなたがた」が3回出て来ます。「あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが(あなたがたに)起こったかのように、不審に思ってはいけません」(太字とカッコは筆者)となります。おそらく、3回も念を押すかのように「あなたがた」と書いているのは、神は「あなたがた」一人ひとりのことをよく心に留め、その苦難もことごとくご覧になって、すべてを知っておられるということを示しているのだと思います。地上におられたイエスが苦しみを通っていかれる様子を父なる神はじっとご覧になっていました。そして今、父なる神は、苦難の道にある「あなたがた」(私たち)を見ておられるのです。ですから、ペテロはこれまでも語って来たように、あなたがたの苦難は、キリストの苦難にあずかることである(13節)と繰り返すのです。


2,神は、さばきの時を始めておられる(正しき審判者としての主)

苦難は悪を招く

 手紙の宛先であった教会やキリスト者たちは、「ののしられ」(14節)たり、「苦しみを受ける」(16節)ことがありました。それは反対者たちによる迫害や、信仰を持ち続けることに対する悪意から来る妨害でした。15節に挙げられている悪徳リストは、この当時の社会の暗闇の部分を示し、そういう生き方に巻き込まれないようにとペテロは警告しています。「人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者」の4つのことです。人を殺したり、盗んだり、他の人に危害を加えることは、イエスの語られた戒めから言えば、現実に犯罪として処罰されることだけを指しているのではないでしょう。4つ目の「他人のことに干渉する者」と訳された語は、珍しいことばで、アッロトリエピスコポスという長い単語で、二つのことばを合成したものです。アッロトリスとは「他人」の意味で、後ろのエピスコポスとは「監督」や「監視する人」のことで、他人を監視する者のことです。

苦難は栄光と完成に至る道

 17節にはたいへん厳粛な宣言がなされています。さばきの時が来ている、しかもそれは「神の家から」であると。苦難の現実を味わっている人々に対して、ここでもう一つの大切な点をペテロは明らかにしています。(すでに見ましたように、一つ目は、あなたがたの苦難はキリストの受難にあずかることでしたが)、二つ目は、神の終末の出来事がすでに始まっていることのしるしであるということです。「さばき」ということばで表現すると誤解してしまうかもしれませんが、苦難の出来事は、終末において素晴らしい栄光を受けるその時が近づいていることを知らせているという意味です。主は十字架の苦難を通ることがなければ、復活することはなく、復活がなければ、昇天して神の右に着座されることもなかったのです。十字架は苦難だけで終わるものではなく、歓喜に満ちた栄光へと続く道です。ですから13節で「キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです」と書かれているのです。前にも見ましたように、「終わり」(7節)ということば、17節では「結末」と訳されていますが、それは「もうおしまいだ」という絶望や悲嘆に向かうという意味の「終わり」ではなく、喜びと完成へと至る「終わり」なのです。19節にあるように、ですから、苦しみのただ中においてさえも、私たちは、神より注がれる愛と力を日々受け取り、平安と確信を抱いて、愛と優しさとをもって日常の働きに勤しむことができるのです。私たちのすべてを、明日を、私たちの未来を、主にお任せする、お委ねして生きることができるのです。主は生きておられるのですから(Because He lives.)。