「キリスト・イエスにある私の生き方」

コリント人への手紙 第一 4:6ー21

礼拝メッセージ 2016.4.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリストにある私の生き方、それは高ぶらない生き方です(6−13節)

 「キリスト・イエスにある私の生き方」(17節)とパウロは書きました。信仰は頭の中で持つ知識以上のものです。それは生き方を変え、生活となるものです。この「私の生き方」というのは、英語で言えば「マイ・ウェイ(My Way)」(正確に言えば聖書の方は複数形のMy Ways)となります。かつてフランク・シナトラが歌って大ヒットし、多くのアーチストがカバーしてきた歌に「マイ・ウェイ」という曲があります。一人の男性が人生の終わりに臨んで、友人に対して語りかける内容で、私は、私の信じる道を歩んで来た、精一杯生きて来た、後悔していないと自信に満ちた歌詞を、勇壮なメロディーで歌い上げる曲です。パウロの歩んだマイ・ウェイ(私の道)の言明は、このポール・アンカの作った歌詞と確信に満ちた振り返りは相通じる点はありますが、はっきり異なっている点があります。それは「キリストにある」ことが明言されていることです。パウロの人生の歩みは、キリストに愛され、救われ、罪赦され、導かれて、キリストのために生きたマイ・ウェイでした。
 パウロのここで述べていることは、キリストにある生き方、道というものは、高慢になったり(6節)、思い上がったりする(18,19節)ような生き方ではないと言っています。コリントの人たちに見られる「高慢」な考え方や姿勢、それこそがコリントの教会の中にあった課題を生じていると言っているのです。
 9節以降のパウロの言葉は強烈です。コリントのある人々のように高ぶっている生き方を「王さま」にたとえましたが、それとは対照的にパウロなどの使徒たちの姿を「見せ物」にされた「死刑囚」にたとえています。当時、戦争に勝った時には、凱旋パレードが盛大に行われました。そこで帰国した軍隊が行進したのです。そしてその行進に続いたのが、負けて連れて来られた捕虜たちです。彼らは「見せ物」にされて後、処刑されました。
 写真家ロバート・キャパの写真に、丸坊主にされた若い女たちがあざ笑うパリの群衆に囲まれて、逃げるように歩いている一連の古い写真があります。解説を見ると、彼女たちは、恋人か何かで戦争中にドイツ人と繋がりを持っていたことがあとで発覚した人たちのようでした。20世紀にも「見せ物」にされた人たちが多くいたのです。クリスチャンは「はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。」(12−13節)。これは本当に信念を持った強い生き方です。


2,キリストにある私の生き方、それは霊的な親となる生き方です(14−21節)

 6−13節を見ると、きつい口調が目立ちますが、14節以降でパウロは、コリント教会の人たちとの関係を親子関係としてとらえ、厳しくも、愛のある父親として彼らに語りかけています。パウロは、コリント教会の開拓者でしたから、彼らにとって確かに「霊の父親」的存在でした(14,15節)。私たちも実際に子どもを持つ持たないということではなく、パウロのように霊的な父として(あるいは女性ならば母として)、自分のまわりにいる方々への励ましや力となることを願って、霊的な親として歩む意識を持つことが求められています。キリストにある生き方というのは、その実践です。
 ここでパウロは言います。「どうか、私にならう者となってください。」(16節)。直訳すると「私の模倣者となりなさい」と彼は言います。この言葉にたじろぐ人は多いのではないでしょうか。というのも、私たちが他の人に「私を見習え」となかなか言えないからです。私の教えていることには従ってください。でも私の真似だけはしないでください。私は反面教師ですから。と誰もが思っているのではないでしょうか。
 しかし、生き方ではなく、別の分野であれば、パウロの書いたことは、よくわかります。あるレベルになると別でしょうが、スポーツのコーチや、音楽のレッスン、その他の技術的な指導は、たいてい、口で教えるだけでなく、模範的な演技を見せて、こうするのですよ、と指導します。私は過去も現在もできないのですが、口だけでこうしなさいなどと言う教師がもしもいたとしたら、誰も生徒がついて来なくなるでしょう。
 また生徒の立場で言えば、上達したい人は、教えてくれる人の上手なやり方をまねるものです。それを写しとるようにしていくことで段々と腕を上げていくことができます。この「ならう者」(16節)は、英語でmimic「ものまねをする」という語の語源になったギリシア語が使われています。
 では、パウロの何にならうのか、ということに目を向けましょう。パウロという人は、いわゆる道徳的品性や性格が特に素晴らしかったとは思えません。むしろ個性的で、アクの強い人のように感じられます。だから、パウロ自身は、自分の激しい独特の性格に皆が合わせるように言ったとは、到底考えられないのです。では、彼のどういう生き方を模範とするのか、それは「キリストにある」ということです。キリスト中心に生きるということです。
 これは伝達可能な生き方なのです。もしも、品性やすぐれた人格といったものが伝えなくてはならない内容であれば、それはたいてい、一代限りで終わってしまうのではないでしょうか。でも、それぞれの置かれたあり方や状況の中で、キリスト中心に生きることは可能であるし、それを伝えていくことができるはずです。
 はじめにマイ・ウェイと言いましたが、「道」と聞いて高村光太郎の「道程」(道のり)という詩を思い出しました。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちさせた広大な父よ・・・(後略)」。高村光太郎はクリスチャンではなかったと思いますが、この詩の「父」や「自然」は非常に大きな神のような存在を指しているようです。その偉大な方の前に、自らの道を歩んで行く。その道は自分が歩かなくては生まれない道です。私たち誰もが、「キリスト・イエスにある私の道」を歩きながら作っていく。それが今こそ求められているのです。