ヘブル人への手紙 13:7ー17
礼拝メッセージ 2026.1.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,教会指導者への注目
著者はいくつもの重要な教えをこれまで多く述べてきて、今や手紙を終わらせようと最後の筆を走らせています。人間としてはよくあることだと思いますが、「そう言えば、これも書いておきたい」、「このことも伝えておかねば」と、書き足すような事柄が心の中にどんどんと浮かんできたのではないかと想像します。
そのような今回の箇所には、宛先の諸教会の状況の一端が垣間見えるような気がします。教会と言えば、そこに霊的な指導者である牧師がいるでしょうし、異端的教えに惑わされる人がいてどう対処すべきかの相談があったり、あるいはそこでは毎週礼拝が捧げられており、そして大切な交わりが生き生きとなされていたことでしょう。そうしたナマの現実の姿が映し出されてのことばとして読むと、ここは理解がしやすい気がします。
特に、この箇所で目立っているのは、7節と17節でしょう。それは教会の指導者、今で言うところの牧師や教師への注目です。主の働き人について、こうあるべきという聖書箇所はいくつかありますが、この手紙が記しているのは、信徒の側として、どのような姿勢で向かい合い、あるいは関係性を持つべきか、たいへん具体的なことが書かれています。7節では「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。」と勧められ、17節では「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」と命じられています。
なぜ、繰り返し「指導者」への態度について、著者は勧めをしたのか、どういう意図がそこにあったのか、現代の私たちにはわかりません。しかし、おそらく教会という信仰によって建てられたグループにおいて、「指導者」(牧師)という存在の重要性は今も昔も変わらないことを示しているのでしょう。
詳細に見ていくと、実は7節と17節で言われている「指導者たち」には違いがあると言われています。それは何かと言うと、7節の「指導者たち」とは、すでに天に召されて、この世にはいない、過去奉仕された牧師たちのことをどうも指していると言われています。そして他方、17節のほうは、この当時、読者たちが集っている教会で、指導者として奉仕している人たちのことを言っているようです。
2,すべてが変化しても、決して変わらないイエス
この宛先の教会でかつて奉仕していた指導者がいました。しかし、迫害のためなのか、年齢のためか、すでにその方は召天してこの地上にはおられないということでしょう。この書の著者は、11章から12章1節までで、過去の信仰に生きた人たちのことを覚えて、その模範に倣うように勧めてきました。旧約聖書の儀式律法に戻ってしまうような体質を持っていた人たちがいる教会です。彼らは過去の伝統を重んじるあまり、それまで指導してくれた牧師たちがいなくなった現実に落胆して、信仰が大きく揺さぶられていたのかもしれません。
教会は長い歳月の間に、牧師も、そして集う人たちも移り変わっていきます。けれども大切なことは、その人たちが持っていた信仰なのであり、その信仰の対象であるイエス・キリストこそが、どの時代の信仰者にとっても重要なはずです。それが8節で語られていることに直接繋がっていると見られています。時は過ぎ去り、どんなに人や時代が移り変わっていこうとも、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがない」という宣言です。
変化があるのは、いつの時代も同じです。過去の指導者たちが信じ、従ってきたお方は、イエス・キリストでした。それは言ってみれば、「昨日」という過去です。「昔は良かった。あの頃が懐かしい。」と以前のことに思いが捕らわれて、多くのことが変わってしまった「今日」という日をなかなか受け入れられないことがあります。変化についていけず、信仰から離れてしまうのなら、それはとても残念なことです。しかし、ヘブル人への手紙の著者は、「今日」という日にもイエスは何も変わることがなく、ともにいてくださると断言しています。
3,「今日」という日を、主とともに生きる
これまでのところで、著者が「今日」ということばを記したのは、二つのフレーズでした。一つは「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。」(1:5、5:5)で、もう一つは「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(3:7、15、4:7)です。前者はキリストが王として御父に任命された「今日」を指しています。後者は出エジプトの荒野の放浪時代に神の御心に従わなかった人々を例に取って、彼らのように心を頑なにせず、主を信じ、従いなさいという勧めです。著者は読者である私たちにこう問いかけるのです。「この信仰的な意味での『今日』という日が私たちに与えられている。だからあなたはその『今日』を信仰をもって歩み続けなさい」と。
著者は、この後、信仰をもって「今日」をしっかり生きていくことを妨げるものがあることを記しているようです。それは「様々な異なった教え」が人々の間で広がっていたということです。おそらくそれは食物規定のようでした。外側のかたちにこだわる信仰の形態が、当時の人々を魅了し、異端的な教えに逸れていくことがあったのでしょう。
その時代によって、人々が魅力を感じる考え方は様々です。しかし、想像できることは、その「異なった教え」を受け入れることはおそらく当時の人々にとって抵抗感の少ない、居心地の良い考えでした。しかし、イエスに従うことは多くの反対に直面し、苦しめられたり、辱めを受けるような圧迫がこの時代にはあったのです。
11節から13節は、イエス・キリストが神殿の外で、カルバリの丘で十字架にかかられ、苦しみを受けたことは、神の御前でのささげ物としては不完全であったのでは、という批判があったことを受けてのことばでしょう。それに対しての説明として、このレビ記の規定(レビ16:27)が語られたのです。
キリストの犠牲によって聖なるものとされた人たちは、もはや聖所や儀式の中に安住してはならないということです。むしろ宿営の外へ出て、イエスが負われた辱めを自ら背負いながら、主のもとへ行かなくてはならないと著者は言います。キリスト者が奉仕し、礼拝するこの世界は、確かに不信仰と迫害が渦巻く清くない不浄の場所です。しかし、その宿営の外に、イエスがいてくださるのです。
昨日も今日も永遠までおられるイエス・キリストは、不信仰や悪が存在する不浄の場所、宿営の外にいてくださいます。有名な聖書学者F.F.ブルース氏は注解で次のように述べています。「主イエスの助け、恵み、御力、導きはいつも民のために備えられている。とすれば人々は落胆する必要はない。」(『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会)。
