「キリストの心を心とせよ②」

ピリピ人への手紙 2:1ー11

礼拝メッセージ 2015.10.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスのうちに見られるのは、どこまでも           (降りて)行く生き方です

 「キリストの心を心とせよ」というパウロの勧めは、6〜11節において、キリストがどのようなお方であるのかを明らかに示すことによって、私たちの生き方の方向を教えています。神学や教えの面で言えば、ピリピ人への手紙の中で、この6〜11節は最も重要な聖書箇所と言えるでしょう。なぜなら、ここに、イエス・キリストの「神性」(神のご本質)と「人性」(人間であるご性質)との関係がどのようなものであるのかを語っているからです。キリストは神であると同時に、人間であられたという重大な真理が明言されているのです。また、この箇所は美しい詩文体で表現されており、当時知られていた讃美歌のようなものではないかとも言われています。しかし、パウロの話しの流れからすると、ここで一番伝えようとしたことは、キリストの本質についての神学的説明でも、賛美の歌を披露することでもなく、ピリピの人たちに、生きる姿勢を教えることでした。それは個々人の指針でとどまるものではなく、教会の一致という信仰の共同体としてのあり方をただすものでした。パウロが語っている、キリストを模範とする生き方とは、一言で言うと、「下って行く生き方」です。
 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」(6節)とあるように、キリストは「神の御姿である方」、つまり同等のお方であると語られています。聖書が語る神は、日本の八百万の神のように一芸に秀でただけの存在ではありません。すべてのものの造り主、大宇宙の主であるお方です。よく言われるように、全知全能で、遍在の神です。すべてのことを知っておられ、どんなことでもすることができ、どこにおいてもおられるお方です。その創造主である方が、被造物の人間になるということは、想像することさえできない、途方も無い決断と行動です。キリストは神としてお持ちの権利、自由、栄光、豊かさなど、すべてをお捨てになったのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。

 「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(7節)。「ご自分を無にして」は、別の訳では「おのれを空しくして」とあるように、「無」とか「空しく」とは、何もないゼロになったことを示しています。キリストのご降誕のことに思いを向けると、普通の人間と同じように、母のお腹の中で胎児となり、赤ちゃんとして生まれられました。自らでは何もすることができない状態を良しとされ、親の保護と世話とを受けなければ生きていくことができない存在となってくださったのです。また、王侯貴族としての華やかな環境の中に生まれた訳ではありませんでした。飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんは、貧しい大工の家で育たれました。公生涯と呼ばれる伝道生活の時も、「仕える者」(直訳「奴隷」)として弟子たちの模範として歩まれたのです。
 「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(8節)。私の理解では、「自分を卑しくして」というのは、先ほどの「ご自分を無にして」との比較で言えば、「無」はゼロでしたが、この「卑しくして」というのはゼロ以下のマイナスの目盛りになると思っています。キリストのどこまでも降りて行く生き方は、最低ラインの「死にまで」至られたのです。しかも、それは死すべき人間というだけではなく、「十字架の死」でした。十字架刑はご存知のように不名誉な死です。極悪な犯罪者が受けなくてはならない処刑方法でした。社会的にも、肉体的にも、苦しみと痛みと、恥と屈辱をなめ尽くされたのです。旧約聖書の律法の観点からも、こう言われています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられた者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。


2,イエスのうちに見られるのは、神によって         (高く)上げられる生き方です

 6〜8節までは「キリスト・イエス」が主語でしたが、9節は主語が「神」に変わっています。真の意味で、人に栄誉を与え、高く上げてくださるのは、神であり、神にしかできないことなのです。低くされた者を高く引き上げられることこそが、神のご目的に適っていることです。しかも、低くされて一番どん底まで降りた人だけが、高く上げられることの高低差と醍醐味を経験できます。「高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18:12)からです。
 神はキリストを高く上げられ、すべての名にまさる名をイエスにお与えになったのです。10節に「(天にあるもの、…地の下にあるものの)すべてが、ひざをかがめ」とありますが、直訳すると「すべてのひざがかがむ」と書いてあります。また、11節で「すべての口が」と言うところは、直訳は「すべての舌が(告白する)」となっています。このようにしてからだのあるパーツにフォーカスを絞って表現することで、数しれぬ大勢の人々が、一人残らず、一つの群れとなって全く同じ御名を告白するという驚くべき情景が描かれています。