「キリストの心を心とせよ①」

ピリピ人への手紙 2:1ー11

礼拝メッセージ 2015.10.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスの      (心)があなたにも与えられています

 「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」(1:27)という勧めの言葉が、2章に入ると、別の表現と角度から語られています。それは、「キリストの心で生きるように」ということです。2:5の「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあるからです。この聖句は、今までいろいろな言葉で訳されてきました。少し例を挙げると、「キリスト・イエスが持っていたのと同じ姿勢を持ちなさい」(グッドスピード訳)、「あなたがたの姿勢がどうあるべきか、キリスト・イエスを模範としなさい」(フィリップス訳)、「キリスト・イエスが考えたように、考えなさい」(ベック訳)。そして日本語では文語訳聖書がよく知られています。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。
 でも、イエスの心で生きることは私たちにできることなのでしょうか。またそれはいかなることなのでしょうか。一つ明らかなことは、ピリピ人への手紙の著者パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト」と断言していましたから、少なくとも、彼はそのように生きていましたし、それをピリピの教会の人たちにも、ぜひ実践して、経験して欲しいと願っていたことは確かでした。
 2:1に「もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」とあって、「もし…があるなら」と繰り返されています。この「もしも」は、あるのかないのか不確かな仮定の「もしも」ではなく、必ず確実にあることを確認する「もしも」なのです。ちょうど、親が子どもに向かって「もしもあなたが私の子どもなら、きっと〜するわ」という感じです。
 その理解でここを読むと、神様を求め、信じ、教会に集っている私たちの間には、当然のこととして、「励まし」「慰め」「交わり」がありますということなのです。そしてその源泉は、三位一体の神ご自身にあると暗示されています。というのも、1節の「キリスト」「愛」「御霊の交わり」は、パウロがよく使う表現形式だからです(例えばⅡコリント13:13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」とあります)。三位一体の神が、過去も、今も、将来も、私たちの間に働かれて、ありのままで、私たちを愛し、受け入れて、愛と恵みを注いでおられるからです。そしてそれを受け取った私たちの間にある交わりの中に、キリストがおられ、キリストの心がそこに確かに存在しているのです。「ところが、私たちには、キリストの心があるのです」(Ⅰコリント2:16)。


2,イエスの心で        (生きる)ことを妨げるものがあります

 イエスの心で生きるという考え方を持つことが大切です。パウロが2節で「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」と勧めていますが、この同じ思いを持つことの基盤にあることが、イエスの「考え」を持つことなのです。「心」と言えば、感情的なこと、優しさやフィーリングのように捉えがちですが、ここで言われていることは、「考える」ことなのです。ピリピ人への手紙のキーワードの一つとされている言葉が、この「考える」(ギリシア語でフロネオー)です。すでに1:7にありましたが、今回の聖書箇所2:2と2:5(「心構えで」)で使われています(2:2は日本語では文章の流れから読み取りにくくなっています)。「考える」こととは単に頭で理解するだけではなく、行動原理や生きる姿勢のことです。どう考えるかで、どう生きるかが変わるとパウロは考えていました。有名なローマ12:1「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」とあるように、このピリピの聖書箇所でもドラスティック(抜本的)な変化を伴う決断を、ひとりひとりに促しているのです。
 しかし、その生き方を妨げるものがあることもパウロはよく分かっていました。「自己中心」と「虚栄」です。「虚栄」とは、原語でもそうなのですが、虚しい栄光ということです。人間の栄光とは、神の前では虚しい驕り高ぶりに過ぎず、そうしたことが一致を妨げ、交わりを破壊し、キリストの心で生きることの障害となるのです。


3,イエスの心で生きることの            (方向)を知ろう  

 「自己中心」と「虚栄」とは正反対に、命じられている方向性は、「謙遜」と「他者への愛の配慮」です。「へりくだり」と「愛」の見本は、イエス・キリストです。イエスの謙遜(神学的には「謙卑」と言います)を最もよく表すのは、十字架の死ですが、印象深い他の例として、「洗足の記事」があります。「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられた手ぬぐいで、ふき始められた。」(ヨハネ13:2−5) 足を洗うという奴隷の仕事を、王の王、主の主である方がされました。しかも、これらの12組の足はこれからイエスを裏切り見捨てて逃げてしまう足となるのです。イエスの生き方をあなたの心に焼き付けてください。