「キリストの力と心を宿す生活②」

ローマ人への手紙 8:12ー17

礼拝メッセージ 2017.9.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,御霊は、あなたを力強く導きます(12−14節)

 御霊は、三位一体の神ご自身ですが、タイトルにしましたように、私たちのうちに住んで、キリストの力と心を現してくださるお方です。霊ですから、人間の目には見えませんが、確かに私たちのうちにおられ、働いてくださいます。ところが、キリスト者と見られる人たちの間に、キリストの力とその御思いが表されているように見えない、感じられないということがあります。その理由が、12〜13節で説明されています。もし、私たちが「肉に従って」生きてしまっているなら、「からだの行い」を殺さず、むしろ御霊の働きを圧迫しているなら、そういうことがあり得ると語っています。
 「肉に従って生きる」ということや、「からだの行い」は、3〜7節でパウロが語って来たところを合わせて見ることで理解がしやすくなると思います。この「肉」は、「罪深い肉」(3節)と呼ばれ、「肉の思いは死であり」(6節)、「肉の思いは神に対して反抗するもの」(7節)で、「肉にある者は神を喜ばせることができません」(8節)。
 肉に従って生きるのか、御霊によって生きるのか、という二者択一の選択を迫られています。それは、善悪において中立状態から、正しい道か、悪い道か、を選び取るということではありません。むしろ、もうすでに御霊をあなたは受けています、ならば、御霊を宿している者として、御霊に従って歩みましょうと呼びかけているのです。
 受けた恵みと立場とにふさわしく歩みなさい、それが最も自然なことなのです。でも、もし肉に従って生きるとしたら、それは不自然な生き方であり、死へとつながっていると教えています。しかし、パウロは肉の力の強さもよく心得ていますから、ここでは「からだの行いを殺す」(13節)と強い調子で述べるのです。「殺す」(死を与える)とは、とても激しい表現ですが、それほどの断固とした決意や行動が必要なことが多いからです。
 14節に「(神の御霊に)導かれる」とありますが、この「導かれる」という語は、静かにゆっくりとしたことのように見えるかもしれませんが、実際は「駆り立てられる」「動かされる」「引っ張って行かれる」というような動的で強いニュアンスを持っている言葉です。御霊は、私たちの肉の性質から幾度も浮かび上がってくる罪の誘惑や欲望に対して、そのからだの行いを自らで殺すように駆り立て、働かれるということです。御霊が、必ず信仰の勝利を得られるように力を与えてくださることを、私たちは信頼して良いのです。


2,御霊は、あなたに「アバ(父よ)」と叫ばせます(15節)

 この箇所で私たち人間が、全知全能の創造主である神と、なんと親子関係になる、という素晴らしい真理が書かれています。14節「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあるとおり、神を父親とし、神の家族の中に迎え入れられるのです。これは素晴らしい御霊の働きです。
 「アバ」というアラム語が音声そのままに記されています。意味は「父よ」という呼びかけの語です。この言葉は元々、幼い子どもが使う表現でした。今で言う「パパ」とか「父ちゃん」という感じです。しかし、新約聖書の時代には、幼い子どもだけが使う語ではなくなり、成長して大人になった子どもが父親に対してもふつうに使うようになっていました。
 新約聖書には、3回このアラム語が記されています。当箇所と、ガラテヤ人への手紙4章6節、マルコの福音書14章36節のゲツセマネの祈りの箇所です。共通していることは、すべて、神を父と呼んでいることです。イエスの祈られた言葉を見ておきましょう。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』(マルコ14:36)。十字架を目前に、血の汗を流すようにして父なる神に祈られた言葉です。御子イエスと御父との深い絆、絶対的な信頼関係が読み取れます。イエスは神の御子ですから、「アバ、父」と祈ることができましたが、では、私たちはどうでしょうか。パウロは言います。あなたがたも、イエスと同じ子どもとしての立場に立って、神に呼びかけることができると教えています。15節「子としてくださる御霊を受けたのです」と書かれているとおり、私たちは神の養子となったのです。
 「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく」(15節)とも書いています。「奴隷」と「子ども」が対比されているのです。雇い人や奴隷と、その主人の子どもとは明らかに優遇や立場に違いがありました。第一に、親子関係としての親密さや、心理的距離の近さが全然違います。第二に、自由度が違います。奴隷は束縛されているし、主人との関係においても、主人が怖いから従っているという感覚がありますが、子どもは違います。頼りにできる方として、自由に親のところへ行き来できるのです。子は親への信頼ゆえに安心して従うのです。
 さらに15節を見ると、終わりに「呼びます」という表現があります。これは大声で叫ぶということです。新約聖書釈義辞典によると、ここの「呼びます」は、神の子どもであり、子とされる御霊を受けたことのゆえに、信仰者たちが集会において、歓喜のうちに叫ぶこと、を表しているそうです。
 興味深いことには、このローマ書のほうは、叫ぶのは、私たち人間のほうですが、ガラテヤ書のほうでは、御霊ご自身が叫ぶ、とあります。「そして、あなたがたは子であるがゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)。私たちが、神に向かって、お父様、アバと叫ぶことは、御霊の叫びであるとも言えるのです。あるいは、私たちが叫ぶ前に、すでに私たちの内側で御霊が叫んでいると言っても良いでしょう。26節には「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」と記されているとおりです。
 なぜ、叫ぶのかと言えば、喜びと感謝に満ちていることが理由であるときと、17節以降に示唆されているように、苦難ゆえの叫び、終末的希望の叫び、もあります。いずれにしても、これは奥深い祈りの極意であると言えるでしょう。祈りは人間の応答であると同時に、御霊の叫びでもあるということです。そして私たちは、いつでも、どこにおいても「アバ!」と御父をお呼びできるのです。