「キリストのうちに自分を見いだす」

ピリピ人への手紙 3:1ー11

礼拝メッセージ 2015.11.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,人間的なものに依り頼む生き方に         (注意)しよう(1−6節)

 3章に入ると、一つの大きな転換、変化が言葉の中に起こっていることに気がつきます。この箇所は特に激しい感じで、ある学者は「どぎつい」と書きました。たとえば、敵対者たちを「犬」呼ばわりし、「肉体の割礼だけの者」とは直訳すれば「切断」「切り取り(野郎)」といった感じです。また4節以降には一見自慢しているかに見えるパウロの経歴リストがあり、8節の「ちりあくた」は糞尿や汚物の意味にもとれます。
 それはパウロがこれほどの大胆な書き方をしなくてはならないほど、当時のピリピの教会には戦いがあり、警戒すべきことがあったようです。ここの表現だけでは明確にはわかりませんが、割礼を強要する律法主義者たちが教会を混乱させていたのかもしれません。ガラテヤ書の終わり部分に「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。…彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラ6:12−14)と書いてあります。
 この割礼を強要する人について、その本質を「人間的なものを頼みとする」者と言っています。新改訳「人間的なものを頼みとする」はわかりやすい翻訳で直訳すれば「肉において依り頼む」となります。それは生まれながらに与えられていること、例えば立派な家系に生まれたとか、財産のある親を持っていることの誇りなどであり、それに加えてその人自身が努力して得てきたことの自慢、有名な学校を卒業したとか、スポーツで賞を獲得したとか、こうしたいわゆる外面的なことのすべてがこの「人間的なもの」(肉)に含まれ、これらのことに生きる力や基礎を置くことを言っているのです。
 パウロ自身も「人間的なもの」を完全に無視して生きて来た訳ではありませんでした。むしろ彼は「人間的なもの」を振りかざして戦いを挑んで来る反対者たちに対して、同じ土俵でも自分は十分に戦って勝つことができると書いています。当時のユダヤ人として立場で見ると、ここでパウロが語っていることはまさに大いに誇れることでした。生まれながらに与えられていた出自に関することと、自らが努めて得てきたものの両方がここに記されています(4−6節)。けれどもその言わんとしていることはそれとは反対のことで、もしそういう人間的なことにだけに依り頼み、それらに縛られて生きるならば、その生き方は主にある者のあり方ではないし、神から来る真の喜びを経験したり、神の祝福を受けて生きていることにはならないことを教えています。
 私たちはどうでしょうか。人間的なものを自分のあり方の土台にしてはいないでしょうか。自分の特技や頭の良さ、立派な家柄、名の通った会社や学校、履歴書に書ききれない経歴や業績、病気しない強いカラダ、優しく温かい家族、人に披露できる趣味等が、自分の存在根拠になっていないでしょうか。パウロは自分の「人間的なもの」をあえて語ることで、2節で批判した「犬ども」「悪い働き人」のような者たちと、かつては自分も同じ種類の人間であったことを認めているのかもしれません。でも「人間的なもの」を頼みとせず、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇る」生き方をパウロはここではっきりと宣言します。ここをパウロの自己批判を含む言葉とすれば、信仰に関わる事柄であってさえも、たとえば私たちが所属している教団教派や教会、そしてその伝統を誇ったりすることでさえ、ここで言う「人間的なもの」になり得る危険性を警告していることになるでしょう。


2,キリストを知ることですべての        (価値観)がひっくり返ります(7−11節)

 パウロがここで述べていることは、信仰の根本についてのことなのです。新共同訳ではこの段落は「キリストを信じるとは」という表題が付いています。本日のタイトルは「キリストのうちに自分を見いだす」としました(これは口語訳聖書の訳から取った言葉です)。新改訳では9節「キリストの中にある者と認められ」のところです。パウロが多用している「キリストにある」「主にあって」英語でin Christの表現が意味するところと同様のことです。ある方はこう説明しています「鳥が大気の中で、魚が水の中で、木の根が土の中で生きているように、キリスト者はキリストの中で生きているのである」(宮平望著「ガラテヤ人、エフェソ人、フィリピ人、コロサイ人への手紙 私訳と解説」新教出版p.292)。ここで「損」とか「得」とかが繰り返し言われています。損か、得かは何かの基準、ものさしによって測られるものでしょう。ところが、ここでパウロが明らかにしていることは、人は本当の意味で、損得の判断ができる絶対的な基準を自分の中には持っていないのではないか、ということです。本当に価値あることを知らないで、無益なことに骨を折り、財と能力を費やし、限りある人生を無駄にしてはいないだろうか、ということです。またこのようなに説明をしている人もいます。自分という存在の価値を考えるときに、もちろん最も大切なものは「いのち」です。ところが「いのち」についてどれくらい価値があるかを、人は自分のうちにそれを測る基準を持っていません。「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得があるか」と語られた神の御子が私たちのためにそのいのちを捧げてくださったことを知り、わからなければ、自分の存在価値を正しく知ることはできず、それを測る絶対的基準、ものさしを持つことができないのです。だからキリストを信じ、自分をキリストの中に置き、キリストの中に生きるとき、人はほんとうの自分を知って生きることができるのです。本当に大切なものがわかり見えてくると、今まで重要なことと思ってきたものや、こだわってきたことさえ、どうでもよくなり、ゴミとして捨てても何も思わなくなるのです(参照;マタイ13:44)。