「キリストとともに新しく生きる②」

ローマ人への手紙 6:1ー11

礼拝メッセージ 2017.7.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,罪に対しては、死んだ者と思いなさい!

「思いなさい」という命令

 ローマ人への手紙をここまで読んで来て、振り返ってみると、1〜5章まで、ほとんど命令的な勧めの言葉はありませんでした。パウロは、創造主から離れた人間の罪ある現実と、神が用意された救いと、救い主キリストについて順を追って語って来ました。この6章11節になって初めて、パウロは命令らしい命令の言葉を語るのです。「思いなさい」という命令です。「思いなさい」とは、変わった命令です。「考えなさい」と訳しているものもあります。この言葉は4章で一度説明しましたが、そのときは「算定する」「計算する」という意味があることをお話しました。英語では、カウント(count)という語で訳されていることが多いようです。英語のカウントは、数える意味だけではなく、考える、思う、という意味もあるからです。でも、中心的な意味は、確かに会計的なニュアンスがあります。つまり、それは、事実であるということです。会計上で、架空の数字を書くことは許されません。それは虚偽であり、人を欺く行為です。
 パウロがここで、思いなさい!と初めて、直接に命令の言葉をこのローマ人への手紙で記した時、それは、何かありもしないことを空想するように言ったのではありませんでした。それは空想の産物やこうなったらいいのにという願望のようなものではありません。あなたがたは、十字架にかかられ、よみがえられたキリストにつぎ合わされたという、事実です。ですから、あなたは罪の奴隷ではなく、罪から解放され、そして罪に対しては死んだ者です、と聖書が断言する事実を述べたのです。想像上の絵に描いた餅のようなものではないことを、この「思いなさい」ということは表しているのです。
 そして、では何を思うべきかと言えば、2つのことをパウロは主にあって、命じています。第一に、私たちは罪に対しては死んだ者であること、第二に、神に対しては、キリスト・イエスにあって、生きた者であるということです。

罪に対しては、死んだ者と考えよ

 罪に対して死んでいるということは、いったいどういう意味でしょうか。それはキリストが十字架で死なれたことにより、私たちが罪によって当然受けなければならない罰を完全に引き受けてくださったこと、それによって罪が処分されてしまったことであると理解するのが一番わかりやすいと思います。私たちは確かに自由にされているのです。
 しかし、それだけではなく、罪に対して死ぬということは、クリスチャンだけではなく、誰もが考え望んでいることにつながっていると思うのです。人はある程度の年齢になると、人生をやり直したいと思うことがあります。すこしきつい表現で言えば、今の自分に対してはもう死んでしまいたい、自分の生き方に息が詰まりそうに感じている、という場合があると思います。だから、今の自分に死んでお別れし、もう一度新しく人生を生き直してみたいと思うことがあるのではないでしょうか。しかし、実際は、誰も、自分で自分に死ぬことはできないということです。
 しかし、聖書が明確に語ってくれていることは、キリストが死ん でくださったということです。私たち誰もができないことをキリストがしてくださったのです。これは関根正雄という無教会の旧約学者の先生が言ったことなのですが、私たちは自分に死ぬことはできなません。しかしキリストは死なれました。この方を受け容れるときに、このキリストの死に私たちもあずかることができます。私たち以上に絶望し、苦悩を舐め、どん底に落ちてくださった、このキリストに繋がれるとき、私たちの絶望は絶望でなくなり、問題は問題ではなくなるのです。なぜなら、このキリストとともに死ぬという真理がわかると、キリストを通してしか自分に死ねないことが確定するので、たとい私たちがいろいろと迷い込んだとしても、いつかキリストに帰って来て、キリストとともに死んで、いつでも神に行くことができるようになります。そうすれば、喜びが絶えず与えられ、困難の中でも感謝が生まれてくるようになるのです。


2,神に対しては、生きた者だと思いなさい!

私たちは、新しく造られた者

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)のとおり、神に対して生きているということは、私たちが新しい被造物と変えられていることを意味します。
 キリストを受け容れ、この方につながっても、どんな変化が起こっているか、自分ではなかなか変化に気づきにくいものです。しかし、神に対して、死んでいた者が生きた者に変わったのです。   私たちは以前のようではないのです。以前、聖書は単なる西洋古典の一つであるように見ていたかもしれませんが、今は、これによって生きる指針を見出し、神の御声として聞くようになっているのです。以前は、教会に対して興味も関心もなく、ただ退屈な場所であったのに、今は神を賛美し、礼拝することが喜びであり、力の源になっているのです。以前は、他の人に対して無関心であったのに、今は、神に愛されているひとりの存在として、何とか神の愛を伝えられないか、その人の助けとなることができないかと考えるようになっているのです。実に、あなたは、新しく造られた存在なのです。

真の充足はこの世にはなく、神にある

 神に対して生きている人は、この世が与えるもので完全に満足することができません。同時に、この世界が私たちに真の満足を与えないことを知ることになります。私たちがこの世で持っているものが、いつかは過ぎ去っていくもの、消えてゆくものであることを悟るのです。私たちの家も、家具も、テレビやパソコンも、車も、お金も、目に見えるものはいつかはなくなるし、また私たちが地上生涯を終えたら、私たちは裸で主のもとに去って行きます。ヘブル書の著者が云うように、私たちは「さらにすぐれた天の故郷」(ヘブル11章)に憧れ、その都を設計し、建設された永遠の真の神ご自身を求めているのです。