「キリストが私のうちに生きている」

ガラテヤ人への手紙 2:11ー21

礼拝メッセージ 2022.7.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,福音の真理に向かってまっすぐに歩もう(11〜14節)

パウロがこのことを書いた理由

 パウロは過去に起こった、ペテロと衝突したという緊張の出来事を記しています。ここにはパウロにとっては、霊的指導者であり信仰の先輩であったペテロやヤコブ、バルナバの名前まで出して、その真実を明らかにしています。もちろん、それはパウロに慎重さや配慮が不足していたからではなく、危機的状況のガラテヤの諸教会、そしてひいては神のご目的遂行のために、どうしても書かなければならなかったからです。福音の真理が少しでも薄められたり、弱められてしまうことのないように、キリストにある自由を失わせないために、彼は必死に戦っていたのです。

異邦人との食事の交わり

 ユダヤ人は、長い時代にわたって律法を教えられ、歩んできました。律法に基づく慣習から、彼らは決して異邦人と一緒に食事をすることはなかったのです。しかし、キリストが来られ、十字架とご復活、聖霊の降臨以降、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁は完全に打ち壊され、彼らがそのように生きる必要はなくなったのです。アンティオキアの教会は、多くの異邦人が集う教会でした。イエスをメシアと信じる人たちが「キリスト者」(クリスチャン)と初めて呼ばれたのもこのアンティオキアでした。ケファすなわち、ペテロがアンティオキアの教会に行っていた時、当然、彼らと食事の交わりをしました。ユダヤ人であるペテロと異邦人キリスト者たちが自由に食卓での交わりを持っていたのです。
 ところが、エルサレム教会の指導者ヤコブのもとから「ある人たち」がアンティオキアにやって来ました。この「ある人たち」はガラテヤの諸教会を動揺させたように、異邦人であっても割礼を受けなければならないと考えていた人たちだったようです。彼らは「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ救われない」(使徒15:1)と考えていたのでしょう。ほとんどの構成メンバーがユダヤ人であったであろうエルサレムの教会には、もしかするとそのように考え、信じている人たちが大勢いたと想像できます。ペテロは「本心を偽って行動」してしまったようです。異邦人との食事の交わりを避け、ユダヤ人だけで食事を取ったのでしょう。ペテロの行動は、使徒として立てられていたゆえに、彼自身のことにとどまらず、他のユダヤ人キリスト者たちや、バルナバにまで影響を与えてしまいました。

ペテロの行動の理由

 「使徒であるペテロがそのようにしているなら、私たちもそれに倣おう」とばかりに信仰者たちが行動してしまう事態になってしまったのです。ペテロがなぜこのような失敗をしたのか、確かなことはわかりませんが、おそらく単に「割礼派の人々」の圧力に屈したからではないでしょう。「使徒の働き」を読むとわかりますが、ペテロは神から大きな敷布に動物や獣や鳥が入った幻を見せられて、異邦人コルネリウスの回心を通して、「どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられ…キリストはすべての人の主」(使徒10:35〜36)であることを確信したのです。おそらくペテロは、長い歴史にわたって律法に基づく慣習を厳格に守ってきたユダヤ人たちの多いエルサレムの教会の人々のことを配慮する気持ちで、こうした行動を取ってしまったのではないでしょうか。彼らの心に染み付いた異邦人に対する忌避の感情、ユダヤ人としての選民意識は、簡単に片付けられるようなものではないとどこかでペテロは思っていたのかもしれません。

そんなことがあってたまるか!

 しかし、パウロは、彼らが「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいない」(14節)ことを大きな問題としました。なぜなら、この妥協はキリスト信仰の生命に関わることだからです。彼はそれを絶対に許しませんでした。14節にある鉤括弧のセリフは実際にパウロがペテロにその場で言ったことばであると考えられています。実は、ギリシア語本文には鉤括弧のような表記はありませんので、続く15節以降も、その場でペテロに向かって語ったことばであった可能性があります。「私たちは」という複数形の主語が17節まで続いていることから、ここまでがパウロがその時に言ったことばであったと考えられます。17節の最後には「決してそんなことはありません」(ギリシア語メー・ゲノイト)という表現がありますが、日本語のあるギリシア語辞書には「そんなことがあってたまるか!」と訳されていました。

福音の真理に向かって

 このところでパウロが記しているところから教えられることは、第一に、「福音の真理」以外のもので、他の人たちを区別したり、差別したりすることがないように注意しなければならないということです。この当時、ユダヤ人と異邦人という区別ほど大きなものはありませんでした。今日の私たちはどうでしょうか。大切なことは「福音の真理」です。パウロはこの書の終わりで、こう記しています。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(6:15)。第二に、「福音の真理」に逆らい、妨げるものに対しては、躊躇なく抵抗せねばならないということです。パウロがここで戦ってくれたゆえに、福音の真理は保持されました。アリウス派が大きな勢力となってキリスト教世界を脅かしていた時、アタナシウスが正統派の主張者として戦ってくれました。絶大な勢力を誇っていた教皇が支配する世界でルターなどの宗教改革者たちが戦ってくれたのです。


2,キリストの真実の中で生きている(15〜21節)

 パウロがここで問題としているのは、キリスト者のアイデンティティーの問題と言い換えることができます。異邦人はキリスト者となるためには、ユダヤ人のようにならなければならないのか、また反対に、ユダヤ人は異邦人のようにならなくてはいけないのか、そういうことではないのだと、パウロは言っています。キリスト者となるということは、そこにキリストにある新しいアイデンティティーが生まれるということなのです。そのことを最も劇的に表しているのが、19節から20節であると思います。神の民の新しいアイデンティティーは、キリストの真実の中で生きることなのです。19節で「私はキリストともに十字架につけられました」と書いています。この「ともに十字架につけられました」という動詞は現在完了形です。現在完了形は、過去の動作の結果としての現在の状態を表しています。つまり、「過去、ともに十字架につけられた、それで今ともに十字架につけられている」ということです。キリスト者は、神に対して生きるために、律法に対して死んだ者です。彼らを奴隷のように隷属させ、罪を宣告する古い支配から解放し、別の主人のために生きることを可能にする素晴らしい何かが起こったということです。その「何か」とは、キリストとともに十字架につけられることであり、それによって新しい時代における生活と奉仕が可能となるキリストの絶えることのない臨在が自分のうちにもたらされているのです。