ガラテヤ人への手紙 4:8-20
礼拝メッセージ 2022.8.21 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.キリストにある自由(8-11節)
パウロはガラテヤ諸教会宛てのこの手紙で、福音の真理(信仰義認)について語っています。多数が異邦人であったと思われるガラテヤのキリスト者たちは、すでにキリストを信じていました。しかし、「かき乱す者たち」の教えによって、キリストを信じるだけでは不十分であり、聖書(旧約)の神の民ユダヤ人のように割礼を受けて律法を守り行うことが必要であると理解するようになっていました。このような事態を聞いたパウロは、福音の真理が歪められていることに危機感を覚えて、ガラテヤのキリスト者たちを叱責しながら、説得しようとしています。
当時の文化は現在と違うので、状況を理解するのが難しいかもしれません。まだユダヤ教とキリスト教は独立したものではありませんでした。ユダヤ教の特殊な一派としてキリストの教えに従うキリスト者たちがいました。ガラテヤの諸教会にいたキリスト者たちの中には、おそらく、もともとユダヤ教徒でキリスト者になった人もいれば、ユダヤ教には関心を抱いてはいたけれども、ユダヤ教徒にはならないまま、キリスト者になった人もいました。そしてまた、ユダヤ教を知らず、律法に親しみがないままキリスト者になった異邦人たちもいました。パウロはこのような異邦人キリスト者たちも、キリストを信じることでアブラハムの祝福が与えられると論じています。
ガラテヤ諸教会では、異教徒からキリスト者になった人たちが多くいたようです。もともとは偶像を崇拝しており、神ではない異教の神々に従っていました。偶像崇拝とは、神でないものを崇めて、拝むことです。日本人の多くは、意識的には無神論の立場を取っているかもしれません。冠婚葬祭以外では特定の宗教を持たない人が多数派であるように思います。ところが、それでも、異教の神を含め、金銭、何らかの団体や組織、人、あるいは自分自身など、人間は生きるうえで、何かを信仰しているように思います。ですから、たとえ私たちがキリスト教以外の宗教に心移りしていなくても、「どうして弱くて貧弱な、もろもろの例に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか(9節)」というパウロの言葉は、他人事ではありません。
9節で言われている「知る」とは、頭で知るということだけではなく、人格的に親しい交わりの中で、相手を知るということです。キリスト者であるガラテヤ諸教会の人たちは、すでにキリストを知っており、それ以上にキリストが彼らのことを知り尽くしておられるのに、どうして律法を守り行うことによって成熟したキリスト者になれると思い込んでいるのかと、パウロは問いかけています。
律法は神様から与えられたもので、神様とイスラエルの民との関係においてたしかに非常に重要なものでした。しかし、キリストが地上に来られ、みわざを成し遂げられたことを知っている者として、律法の下で励むことよりも、キリストを遣わされた神を知ることが最重要です。とくに、もともと異教徒であった者たちがユダヤ人キリスト者を真似て律法を守ろうとするならば、それは律法の奴隷となることになります。律法を遵守するユダヤ教の背景がなくても、キリストに出会ったのならば、律法を守ることによって神に認められる必要はないということです。それは、キリスト者は、キリストとの交わりの中で、律法から解放されて、自由に生きることがゆるされているということでもあります。つまり、他のキリスト者の自由を奪ったり、あるいは「キリスト者はこうであるべきだ」と考えたりしてはいけません。
私たちは、様々な戒めや価値観、人間関係などに束縛された下で成熟したキリスト者を目指すのではなく、それらから解放されて自由にされた者として、キリストと共に生きていきたいと思います。
2.キリストが形造られるまで(12-20節)
「私もあなたがたのようになった」「あなたがたも私のようになってください(12節)」。これについて、具体的に何があったのか詳細はわかりません。ただ、彼らの間では通じ合える内容であったことと思います。パウロは、ガラテヤの人たちがキリストを信じるだけではなく、福音に生きる者となってほしいと願っていました。
続くパウロの言葉、「あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。…」から、パウロがガラテヤ諸教会のキリスト者たちのことを大切に思っていることがうかがえます。手紙の内容としては厳しい叱責の言葉が続いていますが、それはキリストのみわざが無駄にならないためであり、彼らが神様の恵みから離れてしわまないためです。パウロ自身が、ガラテヤの人たちとの関係性の中で嫌悪感を抱いて怒っているのではありません。むしろ、彼らに感謝をしているからこそ、彼らが福音の真理から離れてしまっていることに嘆いています。
「私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした(13節)」。これについても、実際に起こった出来事の詳細は分かりません。パウロは、重い病気を患っていたのかもしれません。「自分の目をえぐり出して私に与えようとさえ(15節)」という言葉から、パウロは目にかかわる病気であったかもしれませんし、彼らがとても大切な部分を差し出そうとしてくれたという比喩であるかもしれません。いずれにせよ、パウロは彼らの心のこもったもてなしを思い起こしています。
だからこそ、それなのに自分が敵となってしまったのは、福音の真理を語ったからなのか。かき乱すあの者たちは、善意からあなたがたに熱心に教えているのではない。自分たちに熱心にならせようとしているだけなのだと、パウロはガラテヤの人たちに訴えます。熱心であることは良いことですが、熱心であったら何でも良いわけではありません。
パウロは、「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています(19節)」と、親子の関係のように表現しています。ひとりの人がキリストに出会い、キリストにあって生きて行くまでには、多くの助けと祈りが伴います。子どもの成長を悩み葛藤しながら支え、見守り続ける親のように、パウロはガラテヤのキリスト者たちのことで一生懸命になっていました。
私たちは、個人としても、教会としても、キリストにあってもたらされた神様の恵みをしっかりと受け取っていきたいと思います。神様の恵みを覚えてキリストを信じ続けることは、簡単なことではありません。そのような信仰生活は、神様の恵みとしか言いようがありません。ですから、今後も私たちが神様の恵みを知り続けていくことができるよう、自分のためにも、兄弟姉妹のためにも、祈り求めていきたいと思います。