「ガリラヤで伝道を始める」

マルコの福音書 1:14ー15

礼拝メッセージ 2020.6.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは宣教のことばを語られました

 今回この聖書箇所を黙想していて、一番の発見は、イエスが語られた、ということでした。福音はこのお方なしには成立し得ないものです。このお方の地上での宣教、そして十字架と復活、これらすべてが旧約聖書の歴史から続く神のご計画と啓示とにつながって、はじめて福音は福音となります。その福音の中心であるイエスは、御父に委ねられた御業を忠実に行われたお方としてだけではなく、聖書が明らかにしていることは、それを宣べ伝えていかれるお方でもあったということです。
 イエスは人々のところへ行って、神の福音を宣べ伝え、神の国のことを語り、悔い改めなさい、信じなさいと呼びかけておられます。14節に「ガリラヤに行き」と書いています。9節でイエスはガリラヤからヨハネのところへ来られ洗礼を受け、荒野で試みを受け、またガリラヤへ戻って行かれます。ユダヤの中心エルサレムではなく、ガリラヤです。この書の最後、復活された時にも、ガリラヤへ向かわれました。そこはイエスのホームタウンであり、庶民が普通に暮らしている場でした。
 イエスは良い知らせを伝える使者として、バプテスマのヨハネに続いて、語っておられます。その内容をよく表しているのはイザヤ書です。「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は」(イザヤ52:7)。「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」(同61:1)。
 主イエスは、今も私たちに語りかけ、呼びかけています。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。以前、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた時、その本を閉じても、閉じた本の隙間から、ずっと登場人物の話し声が漏れ聞こえてくるような錯覚を感じました。私にとっては聖書も同じような感覚を持っています。聖書を閉じても、そこから離れていても、閉じた本の隙間から、あるいは心の中で、主の語りかけが響いて来るような思いがします。


2,イエスが語られた宣教のことばとは

時が満ち

 「時が満ちた」の「時」とは厳密に言うと「その時」という特定の機会を指し示すことばであり、「定められた時」と言う意味です。神が約束された「その時」が今、満たされました、成就しましたということになります。14節には、「その時」の状況として、「ヨハネが捕らえられた後」と書いています。これには二つのことが読み取れます。キリストの先駆け、前備えとして来たヨハネが「捕らえられました」。そのことによってヨハネの宣教の働きが終わったということです。この「捕らえられた」は、一面では人々によって「捕らえられ、引き渡された」と受け取れますが、実はそれだけではないのです。この語は別のところでは「引き渡された」と訳されることばで、イエスの受難予告で出て来ます(9:31,10:33)。「引き渡される」という受け身の表現は、一見、人間の悪の行為によるものと見えますが、目に見えぬ神の介在がそこにあり、主のご摂理としての「神的受動形」(divine passive)であると言われています。バプテスマのヨハネの先駆け的宣教のあと、イエスの宣教が始まるという神の必然がそこにはあったのです。「ヨハネが捕らえられた後」が示すもう一つのことは、危険な「その時」に入ったということです。悔い改めのバプテスマを授け、「私よりも力のある方」のことを宣べ伝えていたヨハネがここで捕縛され、6章にあるように、やがて殉教することになります(6:14〜29)。「その時」という時代状況はこのようになったということです。これからイエスが福音を宣教していくという歩みも、さまざまな反対や妨害に出会い、厳しい迫害が待ち受けていることが予示されているのです。

神の国が近づいた

 「神の国が近づいた」の「近づいた」というのは、そのまま読むと、日本語の感じでは、「近づいて来ている」という印象を持ちますが、おそらくそれでは十分ではないと思います。原文ギリシア語では現在完了形です。以前の第三版までは「近くなった」と訳されていましたが、私は現行訳のほうがより良いと思います。それでも「近づいた」と言うと、遠くにあったものがこちらに向いて来ているが、距離はまだまだ遠いという理解も可能です。でも、ここの意味するところは、もう目の前に到着しつつあるという感じです。例えて言えば、駅のホームに立っていると、乗車しようとしている電車が視界に入って来て、ホームに差し掛かっている、「あっ、来た」というような感じです。ですから、ロバート.A.ギューリックという学者の注解書(ワード聖書コメンタリー)には、15節がこう訳されてありました。「定められた時は過ぎました。神の国は歴史の中に来ました」。もう目と鼻の先まで来ているし、もう来てしまっていると言い得るのです。ここでイエスが語られたように、神の国はもうすでに来ているという面と、完全なかたちでこれから来るという未来の側面を当然持っています。でも、この箇所での確かなメッセージは、すでに来て、始まっているということなのです。「神の国」とは神が王となって、義と愛をもって支配される国のことです。

悔い改めて福音を信じなさい

 「悔い改めて福音を信じなさい」ですが、以前にもお話ししましたように、この「悔い改める」というのは、罪を犯した人が後悔して謝り、赦しを乞うということがその中心的な意味ではありません。方向を転換するということ、そして神に立ち返るということです。もちろん、そこには自らの不義や罪の汚れに気づかされて、神に赦し、きよめていただくことを求めることは含まれます。でも、大事な点は、それまでの生きる方向性やあり方を変えて、神の方へ絶えず向き直ること、神に信頼して神と人とに仕える新しい生き方を一歩ずつ始めることです。ルターが福音を信じるということを、生涯悔い改め続ける歩みに入ることと捉えたように、ここでの「悔い改める」と「信じる」のそれぞれの命令の表現は継続的なニュアンスを持っています。一度信じたから、昔悔い改めたから、それで良いとはせずに、私たちの信仰生涯は、繰り返し、主に立ち返り続けるものなのです。