「ガリラヤで会いましょう」

マタイの福音書 28:1ー10

礼拝メッセージ 2020.4.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「恐れることはありません」

死という現実

 毎日のように何人の方が感染された、あるいは感染によってお亡くなりになったという数字が報道されています。国や地方のリーダーが述べるメッセージと警告の内容はほぼ同じです。その警告のことばは、誰でも感染する可能性があるということ、そして誰でも知らないうちに感染して、他の人々に病気を移してしまう危険性があるということ、さらに誰でもこの病気により重症化してしまうリスクがあるということです。そして本当は誰でもわかっていることですが、感染して重症化する可能性があるということは、誰でもこの病気によって死んでしまうかもしれないという可能性があるということです。目をそらしたくなるような世界の映像が流れています。患者であふれかえって戦場と化している病院、棺が所狭しと並べられている教会の礼拝堂、収容しきれず冷凍トラックに収められる状況…。 死ということが、いつ、誰にでも訪れる可能性のある現実として、とても身近な危機あるいは脅威となって迫って来ています。
 さて、イエスの復活の記事を見ると、この出来事が単に嬉しいだけのお祝い事のようには書かれていないことに気づきます。意外なことに、最初のほうに書かれていることは、恐怖で人々の慄く姿です。復活の日に直面した人々の反応は、第一に恐怖でした。墓の見張りをしていた屈強な番兵たちは戦慄のあまり、死人のようになりました。御使いに出会った女性たちは、恐怖に陥り、パニック状態となりました。もちろん、それはこの目撃者たちが死の現実ということに怯えたわけではありません。主の復活の出来事の中で、大きな地震が起こり、巨大な墓石の蓋がひとりでに開き、稲妻のように光り輝く霊的存在者が突然現れたのです。一連の事々によって彼らは恐怖に打ちのめされました。これらのことは現実のことでしたが、それは同時に、今日の私たちにも意味のある、たいへん象徴的な出来事でもありました。地震も墓石が転がるのも、そして御使いの現れも、明確に言える真実は、どれも人間が全然予想することができず、人間のどんな力も及ばず役に立たないことを明らかにしている出来事でした。その中心にあることは、「いのち」と「死」の力ということです。いのちも死も確かに神の力あるご権威のうちにあることです。人間は圧倒的な神のご権威とその驚くべき力の前にひれ伏すほかないのです。

恐れるな、喜べ

 そこで、ここに繰り返されている命令の一つは、「恐れることはありません」(5,10節)ということばです。原語のニュアンスで言えば、「恐れ続けているその状態をストップしなさい」です。この復活の記事には、恐れずに、むしろ「喜べ」と語られています。8節には、「彼女たちは恐ろしくはあったが、大いに喜んで」と記されています。恐れずにいるということは、喜びを持つことを意味しています。9節でイエスが彼女たちに「おはよう」と言われたことが記されています。このことばは挨拶を意味する表現とも取れますが、原語をそのまま訳すと「喜べ」という命令のことばです(脚注参照)。そしてその喜びは、死により復活されたイエスの足を抱いて、礼拝を捧げることにつながります(9節)。恐れから喜びへ、その喜びは礼拝のかたちで表されるものです。
 では、なぜ喜べるのかと言えば、それはイエスがよみがえられたからです。6節と7節に繰り返される「よみがえられた」ということばは、単純なかたちで表現すると、「起き上がる」という意味になります。その受け身のかたちですから、「起こされた」ということです。眠っている人が誰かによって目覚めさせられ、ベッドから起き上がったということなのです。父なる神が、御子イエスを死の床から起き上がらせたのです。それは死という人類最後の究極の敵が屈服させられた瞬間でした。イエスのご復活は、死に支配されていた世界を、まったく新しい世界へと一変させるものであり、その新しい世界、神の支配の開始を告げるものでした。


2,「ガリラヤで会いましょう」

なぜガリラヤなのか

 この箇所でやはり繰り返されているセリフは、「ガリラヤ」でイエスとお会いできるということです。7節「あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」、10節「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」。四つの福音書にそれぞれ復活の記事がありますが、記されている出来事一つ一つは確かに起こったことであるのですが、一つの福音書として記された中で、各々に異なった強調点が含まれています。マタイの福音書の記事で見ると、この「ガリラヤ」で主とお会いするということがとても重要なメッセージであると考えられます。
 エルサレムのお墓ではなく、ガリラヤの指示された山で、イエスは弟子たちにお会いされ、大宣教命令を告げられました(28:16〜20)。ガリラヤという土地は、マタイの福音書を読む限り、二つのことにおいて象徴的な場所であったことがわかります。一つは、ガリラヤは、イエスと弟子たちの多くが最初に出会い、ともに宣教の働きを行った土地であったということです。復活のイエスは再度ガリラヤに戻って、新しい世界として宣教をそこから開始するよう導かれたのです。

死の陰の地で現れる復活の主

 もう一つの象徴は、ガリラヤこそは、イエスと弟子たちの故郷であり、そこに日常があったということです。この日常とは、平穏な暮らしのある日常という意味ではありません。むしろ厳しい戦いが行われている現実の世界ということです。ガリラヤはイスラエルの最北地帯で、過去にはダマスコやアッシリアから攻撃を受けたことがありました。後にはバビロニア、ペルシア、マケドニアなど、多くの国々に攻め込まれて征圧され、住民は殺されたり、捕え移されたり、他民族の移住が繰り返された地でした。イエスの時代にはヘロデ一家による四分された一つの領地として支配されていました。マタイはイザヤ書の預言のことばを記して、ここがどのような土地であるのかを明らかにしています。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向う、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る」(マタイ4:15〜16)。イエスが新しい世界の1ページを開いていかれるその場所は、「闇の中」、「死の陰の地」である不安と絶望の地ガリラヤでした。闇の中に座す人々のただ中にこそ、復活の主は光として現れて、その働きを始めていかれるのです。