使徒の働き 2:1-13
礼拝メッセージ 2015.11.22 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
ペンテコステの出来事
ペンテコステとは過ぎ越しの安息の翌日からから満7週を数えたその翌日に行われるユダヤ教の収穫祭(麦)です(レビ23:15-16)。この日にイエスの弟子たちはエルサレムに集まっていましたが、エルサレムに留まれという復活後のイエスの命令もありました(ルカ:24:46-47)。そこでイエスの弟子たちは不思議な経験をします。それは、聖霊が降ることでした。神の顕れの象徴で、聖霊降臨は終末の開始でもありました。なぜその形が舌なのか?それは人々が違ったことば(異言)を語り始めたことと深い関係にあります。舌のギリシア語はglôssa(グロッサ)ですが(3節)、言語という言葉も同じglôssa を使うことがあります(4節)。一人一人に与えられたというのは、それぞれにその言語を語るという賜物が与えられたことを意味しています。
そこには多くの外国人がいて、ガリラヤ人たちが彼らの言葉を話すのを聞いて驚いています。また、祭りのために巡礼に来ていたユダヤ人たちについても短く示唆されています。彼らの驚きも同様のようです。多くのユダヤ人たちは地中海世界に散って生活をしていました(ディアスポラ)。パウロもその一人です。彼らはユダヤ教徒ですが、ギリシア・ローマ文化も会得しいて、ユダヤに住んでいたユダヤ人とはかなり違った考えを持っていました。この違いは、後の初代教会にも深い影を落とし、またキリスト教会の宣教に重要な役割も果たしました。この外国人や他国で生まれ育ったユダヤ人たちは、イエスの弟子たち(多くがガリラヤ出身)が外国の言葉を語るのを聞いて驚いています。人々の驚きは、またペテロの長い説教を引き出していくことになります。
障壁を超える
言葉の違いは人間関係の障壁となります。本来の言葉を理解し、自分の考えや気持ちを何とか伝えたいと思うときに、言葉の壁はやはり大きいと言えましょう。では言葉の違いのみがコミュニケーション(相互理解)の障害となるのでしょうか?そんなことはありません。日本は明治以後の国語教育で、日本各地でほぼ通用する日本語を持っています。しかし日本の社会は互いに分断されて、互いに理解しない、理解できない、共感や想像力を持てない社会になっています。教会の中でも、残念ですが、同じようなことは起きます。教会でのみ通用しない言葉を用いながら、でも互いにそれが理解できない、あるいは(わかった気になって)誤解のまま話が進んでいることもあります。最も重要なのは、同じ言葉を話すことではなく、互いに理解に努めることです。共通理解を持とうとする、相手を理解しようとする、この意識が健全な和解と尊敬を生みます。
ペンテコステの日にエルサレム教会で起きたことは、言葉と民族の壁を超えて福音が世界(地中海世界)に広がっていこうとする最初の出来事として、またエルサレム教会への神による権威付けとして位置づけられます。またこの聖霊降臨の事件は、使徒行伝の中で続いて起きていきます。創世記のバベルの事件では言葉の数が増えることはコミュニケーションを奪う呪いとして理解されましたが、ペンテコステにおいては言葉が越えることが福音拡大の祝福として述べられています。しかし私たちが問題にすべきことは、その福音の内容であり、そしてそれを実現する行動です。私たちは日本社会に生かされています。神の福音からはるか遠い社会に生きています。壁は言葉・文化だけではありません。だからこそ神は私たちに社会とのコミュニケーションを求め、私たちが生かされている社会に福音が生きるように、それによって多くの人々が生かされていくように求めています。人々を理解なければなりません(教会はこの視点に欠ける)。福音を理解してもらい、彼らが信じるに働きかける必要があります。障壁を超えて互いに理解し、尊敬し合う関係をめざしたペンテコステは、今日でも私たちの教会に生き続けているのです。