ローマ人への手紙 15:1ー6
礼拝メッセージ 2018.5.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,互い一致するために、力のない人たちの弱さを担う(1〜3節)
「力のある者たち」と「力のない人たち」
食べ物に関することで、互いに溝ができてしまっていたローマの教会に対して、「信仰の弱い人」(14:1)を受け入れ、合わせるように語ったパウロは、「弱い人」の反対の側にある人のことを、今まで使わなかった表現で「力のある者たち」とはっきりと言葉にしました。簡単に表現すると、強い人と弱い人という対比です。以前にも見ましたように、この弱いとか強いというのは、直接には、信仰の持ち方のことであって、体力や精神力の強さを言っているのでありません。しかし、信仰が強いか、弱いかと問われたら、ほとんどの人は、自分は弱い人のカテゴリーに入ると思っているのではないでしょうか。しかし、パウロが「力のある者たち」に「私たち」という言葉を付け加えていることに注意を払いたいと思います。彼の意図したことは、自分を弱い人の中に入れて、他の人を強い人のように見て、被害者意識で他の人たちを裁くことではなかったのです。自分よりも弱い人たちに対して、どれだけその弱さを担うことができるのかを考えて、行動するように促しています。
「隣人」となる
2節では、「隣人」という言葉を使っています。イエスが話された「良きサマリア人のたとえ」(ルカ10章)を思い出します。旅の途中、強盗に襲われた人を、同国人である宗教指導者の祭司もレビ人も見て見ぬふりで通り過ぎたのに、異邦人であったサマリア人が助け、世話をし、介抱する話です。イエスはこの話を伝えた人にこう尋ねました。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」(ルカ10:36)。「隣人になったと思いますか」という表現が示すとおり、自分の隣や近くにいるから、それで自動的に「隣人」になっているのではなく、イエスはその人の真の「隣人になる」ことを教えられました。「霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです」(2節)とあるように、私たちが力のない人たちの弱さを担うということは、その人の霊的成長を考えて、最善となることのためにお手伝いすることが隣人となることであるのです。
そのように努めることで、何を目指しているのかと言うと、互いの一致です。もっと正確に言えば、すでに与えられている一致という霊的事実を確認し、さらにその絆が強くされることです。そのための道は、弱い人が強くなれるように、強い側が上から無理矢理に強制することではなく、強い人が弱い人の弱さを担うことによって進められていくというあり方なのです。
2,互いに一致するために、聖書が教えていることを聞く(4〜5節)
聖書にキリストを見る
強い人が弱い人の弱さを担い、隣人を喜ばせて生きるという教えの最大の根拠は、私たちの救い主、イエス・キリストの歩みにあります。キリストは、ご自分を喜ばせることではなく、私たちを喜ばせるために生きられ、そして死んでくださいました(ヘブル12:2)。パウロは、キリストを示すために、詩篇69:9を引用しました。ここの「あなた」は神を指し、「私」は直接には詩篇作者です。メシア預言として見る時、この「私」は、人々の神に対する敵意と嘲りを一身に引き受けて、十字架につけられたキリストを指しています。主のこの御姿こそが、他の人の弱さを引き受ける模範です。これらの御言葉の説明から、パウロは聖書の教えを聞くことの大切さを含んで語っています。私たちがどう生きるか、どのように歩むかを知るために、聖書の教えに耳を傾けることの必要性を教えています。4節「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました」。この書が執筆された時代は旧約聖書しかありませんでした。今日の私たちには、旧新約聖書66巻が与えられています。聖書に聞けば、弱さを担うことがわかるのです。
聖書に忍耐と励ましの神を見る
ただ、聖書は私たちに、戒めや命令を語るだけの本ではありません。4,5節で繰り返されているように、聖書に啓示されているのは、「忍耐と励ましの神」です。聖書をどう読めば良いかということは、簡単に言うことができませんが、聖書は、「私たちを教えるために書かれました」と明言しています(参照;Ⅰコリント10:11、Ⅱテモテ3:15〜17)。そして聖書から読み取れる最も大切なことは、私たちを造り、生かしておられる真の神が「忍耐と励ましの神」であることです。言葉を変えて言えば、神は決して私たちを見捨てることのない主であるということです。神は、罪によって堕落し、かつてはご自身に反感や敵意を抱いていた人間さえも、赦し受け入れてくださる方です。モーセに率いられたイスラエルの民を思い出してください。主が忍耐してくださらなければ、いったい誰が救われることができるでしょうか(Ⅱペテロ3:15)。神は、私たちのことをいつまでも忍耐して見守り、期待し、愛し抜いてくださるのです。そして絶えず私たちを励まし、力づけて支えてくださるお方です。この大切な真理が、聖書に書いてあることの土台です。この忍耐と励ましの神が私たちを一つにしてくださるのです。
3,互い一致するために、心を一つにして礼拝できるように祈る(17〜18節)
一致のための祈り
互いに一致するためにも、どうしても必要なことの最後は、祈りです。5〜6節を見ると、急にパウロの祈りが入ります。「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに…」。教会にある問題でも、個人的な課題においても、いずれにしても、最終的には祈りです。そしてこの箇所の祈りは、一致に関する大切な点を教えています。まず「互いに同じ思いを」持つということです。画一的に「同じ者」になるのではなく、「同じ思い」を持つ、あるいは「心を一つにする」ことです。
一致して神をほめたたえる
祈りの最後は、「主イエス・キリストの父である神をほめたたえる」ことが示されています。多様な者でありながら、同じ一つの主を愛するという動機と心をもって、声を合わせて賛美し、礼拝できるという素晴らしさ、これこそ教会という世によって生み出されたものではない、神的共同体だからこそ可能になる交わりなのです。