ローマ人への手紙 14:1ー12
礼拝メッセージ 2018.4.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,主が私たちすべてを受け入れてくださったのだから、互いに受け入れ合いましょう(1〜4節)
インクルーシブとは?
今回から「インクルーシブな教会」というテーマで、14章以降を見ていこうと思っています。「インクルーシブ」という言葉は、聞き慣れない方もあると思いますが、英語で、包括的な、すべてを含んだ、という意味です。教育の分野では、障害を持った児童と、障害を持っていない児童とを分離せず、同じ普通学級で一緒に教育するという、別け隔てをせずに行うような、インクルーシブ教育と呼ばれるあり方は、以前から行われてきています。
これは障害のことだけではなく、人と人との間にある様々な違いに関しても、言えることなので、貧富の差や年齢の違いなどを超えて、すべての人が共に、同じ場所で生きて行くという「共生社会」の考え方の根本にあるものです。
主イエスは、社会的弱者の立場の人、病気の人、貧しい人たちに対して、何の差別もされず、それらの人たちにまっすぐに向かい合い、接していかれました。まさに今日で言われるところのインクルーシブ、インクルージョンの原型であり、先駆けでした。
それが私たちの石橋教会の目指す姿です。新会堂を建てることを決めた時、次のようなコンセプトを総会で掲げました。「①教会に来るすべての人を受け入れる、みんなの教会、②家族・友達・知人を誘いたくなる、みんなの教会、③居心地の良い交わりのある、みんなの教会」の3つで、これがまさにインクルーシブな教会です。
弱い人と強い人
「今回の聖書箇所には、「信仰の弱い人」(1節)に対することが取り上げられています。弱い人がいるということは、その反対に、強い人がいたということです。何が弱いかと言えば、「信仰」と書かれています。今の日本の教会で、ふつう、信仰が弱い人という言葉が持つイメージと、ここに書かれている内容は完全には合致していないと思います。信仰のつまずきやすさという点は近いのですが、その他の点では異なっているように見えます。
コリント人への手紙第一8章に記されていますが、偶像にささげられた肉が市場に出回っているので、肉を食べることは偶像に関わる可能性があるので、はじめから肉はどれでも食べないと決めた人たちがおり、彼らは野菜しか食べませんでした。それがここで言われている「信仰の弱い人」です。反対に、偶像は本当の神ではなく、何の力も実体も存在しないのだから、そんなことを気にせずに肉を食べれば良いと考えた人たちがいました。そういう理由から肉を食べない人たちのほうを「信仰の弱い人」だと、反対の考えの人たちが呼び、批判したのではないでしょうか。また肉を食べず野菜を食べていた人たちのほうは、肉を平気で食べている人たちを見て、信仰が堕落しているとして軽蔑していたと思います。さらに5〜6節によれば、ある日を他の日よりも信仰的な理由から重んじている人がいました。それはユダヤの暦であったのか、それとも異教文化の暦の影響のことを言っているのか、確かなことはわかりません。他方、どの日もすべて同じと考える人たちもいたのです。
ローマの教会では、信仰者の間の交わりに、ヒビが入ってしまっていたのでしょう。不思議にも、パウロは一度も行ったことのない教会であったのに、おそらく伝え聞いたところから、その問題の状態や本質を見抜いていました。そして、何が大切なことなのかを思い起こせるために、神の愛を知って生きる一人ひとりに問いかけつつ、教えているのです。
だれが私たちの主人なのか?
第一に、4節で「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか」と問うています。言い換えれば、いったい誰が、彼の主人ですか、そしてあなたの主人は誰ですか、と聞いています。言うまでもなく、信仰の弱い人、あるいは信仰の意見や考えの違う人、その人の主人も、あなたの主人も、主人はただひとりではないですか、それはイエス・キリストだけですと語っています。ですから、互いにさばいたり、見下さないようにし、むしろ、「神がその人を受け入れてくださった」(3節)という真実を覚えて、相手を見なくてはならないのです。
2,私たちすべては主のために生きているのだから、互いに受け入れ合いましょう(5〜9節)
5節から9節で言われていることは、食べる人も食べない人も、特定の日を尊ぶ人も、そうでない人もすべて、「主のために」そうしているということです。「私たちの中のだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。」(7〜8節)。この言葉は、どちらの立場に立っている人たちも、ハッとさせるものであったと思います。いったい何のために生きているのか、誰のために生きているのか、あるいは、誰のために死に向かっているのでしょうか。信仰の理解に関することとはいえ、仲違いしている両者のそれぞれの心の中に、私は主のために生きているが、彼らも同じように主のために生きていると、どうして考えることができないのか、とパウロは諭しているのです。9節は福音のエッセンスです。「キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです」。この「主となるためです」とは、主として支配する、という意味です。主の十字架と復活は、主が私たちすべての主となり、私たちを王として治め、導くためでした。私たちはこの方を主として、王として崇め、従うのです。そしてそれが福音のメッセージの中心となるポイントです。
3,私たちすべては神のさばきの座に立つのだから、互いに受け入れ合いましょう(10〜12節)
イザヤ書45章23節が11節に引用されています。終末の情景をイメージさせる厳粛なお言葉です。「すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する」。私たち人間は、誰でも神のさばきの座に最終的には立たなくてはなりません。神の定められたこの終末のことを思うと、現在の歩みの中で、他の人に対して先走った判断やさばきは、控えなくてはならないことがわかります(参照;Ⅰコリント4:5)。私たちがしなくてはならないことは、他の人のことではなくて、自分が神の前に立つことを覚えて、今を慎み深く歩むことです。