「イエス・キリストの誕生」

マタイの福音書 1:18ー25

礼拝メッセージ 2020.12.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,新しい時代の開始を告げる主の御降誕

時代(ゲネア)、創生(ゲネシス)、生まれる(ゲンナオー)

 今年は本当にコロナに始まりコロナに明け暮れるという一年を過ごしてきました。コロナが世界にもたらした影響は計り知れず、否応なしにその影響が次の時代を新しく作っていくことになると、だれもが感じています。この世界的な艱難がもたらした影響と教訓が、世界全体を変革させていくことになるでしょう。そして今回見ているクリスマスの聖書箇所であるマタイの福音書1章も、人類がそれまでの歴史で考えることもなかったような、まったく新しい時代が始まったことを証言している内容なのです。もちろん、コロナは災いですが、クリスマスは幸いをもたらします。「時代」と言いましたが「時代」ということばは17節に出て来ます。何々から何々まで「十四代」という表現です。この「代」とは「時代」「世代」のことで、ゲネア(genea)というギリシア語です。英語でジェネレーションです。18節「イエス・キリストの誕生は次のようであった」と今日の箇所は始まりますが、「誕生」と訳されたことばのギリシア語はゲネシス(genesis)です(聖書協会共同訳の脚注に別訳「創生」)。英語のジェネシスは旧約聖書「創世記」のタイトルでよく知られています。このゲネシスは1節の「系図」(ビブロス・ゲネセオース)ということばにも含まれています。そして、このゲネシスもゲネアも同族のことばです。
 1章は1節で、イエス・キリストの「ブック・オブ・ジェネシス」(book of genesis系図の書)であると表現し、その後、誰から誰が「生まれた」を延々と繰り返します。実は、この「生まれた」というのも、ギリシア語でゲンナオー(gennao)という動詞のことばでゲネアやジェネシスと同族のことばです。そう見てみると、くどいほどに同じ種類のことばが用いられている特異な箇所であることがわかります。それでは17節までのゲネア、時代はどうであったのかということを、福音書記者は読者に想起させようとして、系図として数々の人物の名前を挙げました。そしてそれをまとめ「アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる」と記しています。

国家興亡の1000年

 完全数である七の倍数の「十四」でそれぞれの時代がまとめられていますが、時間的長さは異なっています。最初のアブラハムからダビデまでは約1000年間の長さがあります。次のダビデからバビロン捕囚は約600年間、そして最後のバビロン捕囚からキリストまでが約400年間です。民族イスラエルとしてこれらの時代を見ると、最初の1000年間で、民としての選びがあり、出エジプトという救済の出来事を経て約束の地に入り、国を創設したのがこの期間でした。次の600年間で発展もありましたが、国として分裂が生じ、堕落し、やがて衰退していきます。そして残りの400年間は、捕囚からの帰還はありましたが、台頭する多くの大国に蹂躙されていく滅亡と暗黒の時代となりました。イスラエルは1000年間で国をつくり、次の1000年間で国を滅ぼしたと言えるかもしれません。「時代」ということで見ると、2〜16節までは、アブラハムからダビデの家系に連なるラインで、これは王の家系図でもあるのですが、アブラハム以降、この方こそ、真の平和を実現してくれる人であるのだろうかと誕生のたびに期待があったことを感じさせます。しかし、その願いも虚しく、実現することはありませんでした。とすれば、誰が誰を「生んだ」(ゲンナオー)というこの系図文章は、それぞれの時代を生き、時代を築いてきた人たちではあっても、それが叶えられなかったという歴史の積み重ねでもあったということになり、悲しい響きを感じます。キリストが誕生された時代は、そういう期待が長引いて、いつしかあきらめに変わり、失望と混乱の中に置かれた時代でした。彼らは神が始められ、導いてこられた、われわれ選民イスラエルの歴史は、一体どうなってしまったのかという疑問を抱いていたと思います。しかし、約束のメシアはこのように生れました(20節「宿っている」ギリシア語ではゲンナオー)と、マタイは主の御降誕を記したのです。


2,新しい時代にもたらされるキリストの恵み

罪からの救いを与えるお方ーイエス

 キリストが登場することによって、どんな新しい時代が到来するのかということが18〜25節に記されています。短くまとめると、ここに書かれている二つの名前「イエス」と「インマヌエル」がそれに答えます。21節の二番目の文章「その名をイエスとつけなさい」は、直訳で「彼の名をイエスとあなたは呼ぶであろう」となり、23節の直訳は「彼の名をインマヌエルと彼らは呼ぶであろう」と書かれ、25節後半は「彼の名をイエスと彼は呼んだ」となっています。同様な表現の繰り返しは、そのことが大切なメッセージであることを示します。「イエス」の名前(ヘブライ語で「イェホシュア」)の意味は、「主は救い」ということです。21節の「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」がその説明になっています。人間が真の幸福を得るために最も大切なことは何か。聖書はそれを罪の解決であると語っています。逆にどんな不幸もその原因は突き詰めると「罪」の問題にどこかで関わっています。ちなみに21節の「その罪」は、複数形であり、英語では「sins」で「諸々の罪」ということです。これを解決できる方、罪の赦しを与えて、ここからの解放を可能にしてくださる方は、このお方しかおられないということです。

神がともにおられることを示すお方ーインマヌエル

 次に、23節のイザヤ書からの引用のことばから記されている名前「インマヌエル」です。この語は「インマヌー」(私たちとともに)と、「エル」(神が)が合成されたことばです。先程、ここの直訳で見ましたように、「インマヌエル」とこのお方を呼ぶことになるのは「彼ら」でした(3人称複数形)。新しい時代に入ったことを知った人たちが皆、このお方のことを「インマヌエル」と呼んで、神が私たちとともにおられると告白できるようになるのです。かつて、アブラハムからダビデまでの時代に信仰による期待を抱き、ダビデからバビロン捕囚までで不安と怖れに取り憑かれ、バビロン捕囚からこれまでに絶望を味わってきた彼らが、信仰を失ってしまうほどの危機を迎えていたのに、この幼子の誕生によって、「私たちとともに神はおられるのだ」と再び心から告白ができる、確信できる日がやって来たことをマタイは高らかに告げています。