「イエスを知らないと言うペテロ」

マルコの福音書 14:66ー72

礼拝メッセージ 2022.1.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスを主であると告白すること

イエスの告白とペテロの否認

 この箇所は、前の部分との繋がりの中で読むように、マルコは意図をもって記しています。54節からの続きとして書かれていることは明らかです。「ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。」(14:54)。この「火に当たっていた」というところに、注釈がついていて、直訳は「光」であると欄外に記されています。これは松明の光のことでしょうが、「火」ではなく、あえて「光」と書いたのは、闇の中でペテロの顔や姿が照らし出されている情景を読者が想像できるようにするためだと思います。続く55節から65節は、最高法院によるイエスの裁判の様子が描かれています。66節からペテロのことに話が戻ります。このようにイエスの裁判の出来事が挟まれるような文章構造で記されたのは、この二つの出来事が時間的に同時並行で起こったことを表すためであったからです。この話をもし演劇にするなら、上の舞台ではイエスの裁判が演じられ、下の方ではペテロの場面がなされるようなものです。一方では毅然としたイエスの御姿を示し、他方ではイエスを否認してしまうペテロとの明暗の対比が鮮やかに示されています。
 イエスは、彼を死刑に定めるために祭司長たちによって仕組まれた不正な裁判の中で、いくつもの偽りの証言に対して、全く沈黙しておられました。しかし、大祭司から「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」という問いかけに対して、初めて口を開かれて、「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(62節)ときっぱりとお答えになりました。このように主は、真理を告白することで、どのような結果を生じるのかを十分に悟った上で、はっきりと語られたのでした。そういうイエスの真実な告白、勇気ある大胆な宣言が語られている同じ時間に、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(29節)と豪語していたペテロが、主を三度にわたって否定するのです。彼は、裁判で被告席に立って尋問されたわけではなく、単に庭にいる召使いの女からの素朴な質問にたじろいでしまい、恐れに取り憑かれたようになって、あるいはその場の空気に飲み込まれてしまったのか、「私はその人を知らない」とイエスとの関わりを否定して、最後には呪いをかけてさえ誓ったのでした。

信仰の旗印を掲げる戦い

 三度否定するというのは、完全な否定を表しています。一度きりなら、言い間違いや聞き間違いということがあり得ますが、三回となるとその可能性はなくなり、三人の証人が一致した証言するのと同等の重みを持つことになります。ペテロが追い詰められていくこのシーンは、まるで現代の心理サスペンスドラマを見るような緊迫感に満ちています。最初は「大祭司の召使いの女」がペテロに向かって「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」(67節)と問われ、二回目は同じ女が今度は「そばに立っていた人たち」に向かって「この人はあの人たちの仲間です」(69節)と周囲の人たちを巻き込んでいきます。そして三回目は、その女性のことばを受けて複数の人々である「そばに立っていた人たち」が、「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから」(70節)と、攻撃します。ペテロの弁明することばを聞いていた彼らは、ペテロがガリラヤ訛りであることも聞き取って、それを根拠にして彼に攻め寄りました。54節には、ペテロがいたその庭には、「イエスを平手で打った」(65節)と書いている「下役」たちがいました。また、語りかけてきたこの女も「大祭司の召使い」でしたので、もし大祭司に言いつけられたら、自分の命もどうなることかという恐怖が彼の心の中にはあったと思います。
 マルコの福音書は、ローマにいる人々のために書かれたと言われています。地中海世界はローマ帝国の支配下にあり、イエスを「主」と告白することや「神の子」であると公言することは、迫害の危険をともなうことでした。当時の読者は、ペテロが信仰をもって正しく告白ができず、イエスを否んで裏切ってしまったこの話を繰り返し聞き、迫害下に生きている自分たちの現実の状況と重ねて、読んだのではないかと思います。現在は、信教の自由が保証されています。しかし、私たちはどうでしょうか。命の危険がなかったとしても、嫌われたくない、違和感を持たれたくない、説明が面倒だから、その場の雰囲気を壊さない等の理由から、信仰を明言することから逃げてはいないでしょうか。イエスを主であるという信仰の旗印を高く掲げて歩む戦いから逃げないようにしましょう。


2,自分を見つめ、主と真実な出会いを持つこと

 ペテロは二度鳴いた鶏の声で、イエスのおことばを思い出して、泣き崩れた姿を示して(72節)、この書から姿を消します。そう考えると、この72節は、イエスを除くと、これまで最も際立つ存在感を示してきたペテロが登場する最後の記事として、大切な場面でもあったことに気づきます。「するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」(72節)。
 私はこの泣き崩れるペテロの姿に、二つの意味が込められているのでないかと考えています。一つ目は、ペテロは、この時にほんとうの自分の姿に気づいたということです。それは、自分が主の前に非常に弱い存在であるという自覚です。しかしそれはたやすく知ることのできるような、表面的な自己認識とは異なっています。「たとえご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(31節)と語っていたペテロでしたから、主が「まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」(30節)と言われたことが自分の身において現実になったとき、徹底的に打ちのめされてしまったことでしょう。ある説教者は、イエスを裏切ったユダは首を吊って死ぬが、ペテロはこの時に精神的に一度死んでしまったのだ、と語っています。でもペテロは自分の弱さや不甲斐なさに絶望して終わってしまったのではありません。二つ目に、そういう自分の真の姿をすでに知っていてくださっているイエスに改めて信頼するということも彼の中で同時に起こったことでした。真の自己を見い出したときにおいて、またこのような危機的な状況下で、主イエスとの真実な出会いがそこで起こるということです。これはスイスの聖書学者が注解書に書いていたことですが、何の脅威も感じずに安心し切っている時ではなく、神の裁きの下に自分が置かれていることを悟るところにおいてこそ、主とほんとうに出会うことができるということです。マルコの福音書は、泣き崩れたペテロの中に、このようにして彼は改めてイエスと出会い直すことになったのだということを示しているのです(参照;16:7)。夜中の午前3時頃を示す「鶏が二度鳴く時」という、真っ暗闇の中で起こった涙の夜は、もう過ぎ去りました。夜は明け、朝の光が泣き疲れたペテロを暖かく照らすのです。