マルコの福音書 12:35ー37
礼拝メッセージ 2015.2.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,イエス・キリストを (正しく)理解するように努めよう
①律法学者たちはキリストを正しく理解していませんでした
今から2000年前の古代のユダヤで、最も大きな話題は、「キリストとはどんな方であるのか」あるいは、「キリストはいつ来られるのか、誰なのか」ということだったのかもしれません。しかし、21世紀となった今も、その問いは多くの人たちから大きな関心を集めているのです。あなたは、キリスト(救い主)はどんな方であると思いますか。そのことを考えながら、今日の聖書箇所をゆっくりお読みください。
当時の律法学者たちの多くは、2つの点でキリストを正しく理解していませんでした。1つは、キリストのイメージを正しく理解していなかったのです。35節で「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」とイエスが問いかけています。ダビデの子とは、この時代から約1000年前に王であったダビデ王の、その子孫という意味です。Ⅱサムエル7:12−13にあるように、旧約聖書はダビデの子孫からメシア(救い主キリスト)が生まれることを預言しています。律法学者たちは、キリストはダビデ王の子孫として、ローマ帝国の圧政から解放をもたらし、国を復興させてくれる力を持った方と理解していたのでしょう。
しかし、イエスはキリストとして、当時のユダヤという一つの民族や一つの国家を復興させるために父なる神から遣わされた訳ではなかったのです。全人類、全世界の歴史を担うために来られたお方でした。イエスが説かれた教えやその行動も、この世の王とは全く異なり、仕えるしもべ、平和の君としての姿をご自身が表されました。律法学者たちは、まさにこの点で2つ目の間違いをしていました。このナザレのイエスこそがキリストであることに気づかなかったのです。
②キリストはダビデ王が仰いだ主です
イエスは詩篇110篇を引用され、キリストとはあなたがたが理想としているダビデ王でさえ仰いで、見上げていたお方であることを示されました。キリストは「ダビデの子」であるばかりか、「ダビデの主」であるということです。キリストは私たち人類の罪のために十字架に架かられ、死んで復活され、その後、この詩篇にあるように、天に昇り、神の右の座に着いて、歴史の完成までご覧になる方なのです。
この聖書箇所で語られている律法学者たちの誤解は、現代の私たちも気をつけなければならない教訓を示しています。私たちはキリストという方をどのように見ているのでしょうか。自分と社会に益をもたらすための幸福製造機のように考えていないでしょうか。自分に都合の良いようにキリストを理想化してイメージするなら、私たちも同じ過ちを犯すことになってしまいます。
2,イエス・キリストを (より深く)知り、交わろう
①律法学者たちの誤った生き方はキリストを知らないところにその原因がありました
イエスは律法学者たちの生き方をよくご覧になっていました。38〜40節に彼らの行動の愚かさが明らかにされています。彼らはキリストについて聖書から論じていながら、それが彼らの日常生活と何の関わりもなかったかのようでした。その心のなかにキリストが不在だったのです。それゆえ、彼らの歩みは、人々からの賞賛を受けることに熱中し、弱者を喰い物にするという罪を犯していました。
②キリストと人格的な交わりをして深く知りましょう
イエス・キリストを知るということは、単に知的に理解することだけを意味していません。キリストが今も生きておられ、人格的な交わりを持つことのできる方として認め、心に迎え、信頼し、祈るのです。使徒パウロは、獄中の中で書いたピリピ人への手紙の中で、次のように語っています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:7−8)得であったと思うことを損と思わせる、人生における価値観の大転換が、イエス・キリストを知ることによって起こるのです。