「イエスの降誕の予告」

ルカの福音書 1:26ー38

礼拝メッセージ 2022.12.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,処女降誕の意義 その一 【救いは超自然的なもの】

 「処女降誕」が述べられている聖書箇所は、このルカの福音書の記事と、マタイの福音書1章18〜25節です。マタイが引用した箇所のイザヤ書7章14節もあります。しかし、それ以外には触れられておらず、これにどのような意味があるのでしょうか。主を信じて、あるいは求めて教会に集っている一人ひとりが、このお告げを聞いてひどく戸惑っているマリアの姿に、自分自身の存在を重ね合わせて読む必要があるのです。角度を変えて言い換えるならば、この「処女降誕」とは、私にとっていったいどんな意義があるのだろうか、ということをこのクリスマスの時に考えたいと思います。
 第一に、処女降誕は、私たちに与えられる救いというものが、超自然的なものであることを教えています。生物学上、精子と卵子の結合によらず、単性だけの受精も自然界にはまれに存在するとのことですが、ただ、雌の単性からは染色体の関係から同じ雌しか生まれないと、ある本には記されていました。ですから、これは全くの奇跡であり、神の特別な御業であったことになります。そして、マリアの身体において起こったことは、彼女だけに限定されますが、私たちのことにこの出来事を適用して考えると、霊的な点において、私たちのうちにも同様なことが起こっています。それは霊的に新しく生まれるということです。神の御子の霊である聖霊を宿す者となることは、すべて主を信じる者の上に与えられることです。それは超自然的な神の御業です。後にイエスは、ニコデモという人に、救われるためには新しく生まれる必要があることを説いて、こう言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:3、5)。
 人間は、自分の知識や能力によって、救いの最初の一歩さえも始める力を何も持っていません。聖霊が臨在し、マリアの上に力強く働いてくださらなければ、救い主となる神の子を産むことは決してできなかったのと同様に、私たちにもたらされた神の救いは、超自然的な神の御業なのです。


2,処女降誕の意義 その二 【救いは神からの恵み】

 第二に、処女降誕は、私たちに与えられる救いが、全く神からの恵みの賜物であることを明らかにしています。これはどういうことかと言いますと、マリアという女性が、神の御子イエスを宿す、メシアの母となるのに、特別にふさわしいということはなかったということです。もちろん、マリアは、その後の記述から、謙遜で敬虔な信仰を持った人であり、神に用いられる資質を備えた方であったことは確かでしょう。ルカの記述からもうかがえるように、彼女はナザレという旧約聖書にも記載のない町に住んでいた一人の村娘にすぎませんでした。婚約中のヨセフも、ダビデの家系でしたが、その時代において注目を集めていたような人物でもありませんでした。言わば、この神からの大きな働きを担わせられた人たちは、全く平凡な人々であったということです。
 ここに神による救いが、人間の業績ではなく、神からの大いなる賜物に基づくものであり、だれもこれを受けるにふさわしい人はおらず、神からの恵みにほかならないということです。「恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」(30節)。ここは直訳すれば、「恐れるな。マリア。なぜならあなたは神のもとにある恵みを見出したのだから。」となります。私たちが人間的に優れているから、まじめであるから、神は私たちを救いに選んだのはありません。神が私たちの目を開いてくださって、神のもとにある恵みを見出だせるようにしてくださったのです。


3,処女降誕の意義 その三 【イエスは比類なき主】

 第三に、処女降誕は、救い主イエスが比類なきお方であることを示すものです。神にとって処女降誕という方法を取らなくても、もしかすると、御子の受肉は可能であったのかも知れません。それゆえ、マタイとルカを除いて新約聖書の中に、処女降誕について語られていません。イエスが神の御子であるとの証しは多くの場合、復活です(ローマ1:4)。しかし、こうした特別な誕生の仕方によって、イエスは神に選ばれた、唯一無比のお方であることを示していることも真理です。
 ギリシア語本文の表現によれば、イエスに対して繰り返し「呼ぶであろう」、「呼ばれるであろう」という表現が使われています。一つ目は「あなた(マリア)は彼の名をイエスと呼ぶであろう」(31節)。二つ目は「いと高き方の子と呼ばれるであろう」(32節)。三つ目は「聖なる者、神の子と呼ばれるであろう」(35節)です。
 まず、「イエス」というお名前です。これは「主は救い」という意味です(マタイ1:21)。ヘブライ的に表現すれば、「イェシュア」であると言われます。ヨシュア記の「ヨシュア」や、預言者イザヤやホセアなどもだいたい同じ名前です。しかし、マタイやルカの1章が語っていることは、これまでの歴史で、主が救ってくださることを願ってつけられた多くの「イエス」さん、「イェシュア」さんとは全く違うということです。彼こそは、本当にこの名前の通りのことを成就される唯一のお方だということです。
 二つ目と三つ目の「いと高き方の子」、「神の子」というのは、二重の意味があります。一つは、「いと高き方」そして「神」の「子ども」であるということは、神と同等のご性質を持った聖なる偉大なお方、あがめられるべき主であるという宣言です。神学で言うと、三位一体の第二位格であるということです。イエスは、神であられます。
 そしてもう一つのことは、当時、「神の子」という称号は、皇帝や王を指して使われました。イエスがご降誕されたとき、地中海世界を治めていた巨大な帝国の支配者は、アウグストゥス(オクタビアヌス)でした。新約聖書では、ルカだけがその名を記しています(2:1)。アウグストゥスは、人々から「神の子」と呼ばれ、自らもそう称していました。
 しかし、ここに、全世界の王として来られた真の「神の子」、「いと高き方の子」である方が、マリアの内に宿られると宣言されました。「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」(32〜33節)。この預言はサムエル記第二7章の預言に基づいており、それはイエスが誕生される千年前に語られたものです。その支配に終わりがなく、神の子として治めるということの意味は、ユダヤ、イスラエルだけを支配するということではなく、全世界を永遠に神の愛によって統治されることを意味します。イエスは、全世界の主となるために、処女降誕のかたちをとって、お生まれになられたのです。この福音をマリアのことばのように私たちも受け入れましょう。「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(38節)。