マルコ福音書 14:43-52
礼拝メッセージ 2022.1.9 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
イエスの逮捕
イエスが弟子たちに話している最中に、イエスの選ばれた十二人の弟子の一人であるユダが現れます。ユダは多くの武装した群集を伴っていました。群集はユダヤ教指導者の支配下にあって、その指示に従ってイエスに敵対しイエスを捕まえようとしています。イエスは民衆からも理解されなかったという象徴的な出来事です。次に、ユダは接吻を持ってイエスを指し示し、イエスを売り渡す合図としています。接吻が古代においても親愛の表す行為であったとするならば、裏切りの合図としては皮肉なことになります。
イエスの抵抗が始まります。イエスはここでは力ずくで抵抗するのではなく、言葉を持って不当な逮捕を糾弾します。しかし、イエスはこの場では抵抗を続けることはしません。それは、「聖書の言葉の実現」のゆえであるとされています。ただ、旧約聖書のどこかを引用した形跡はありません。ここでの「神の言葉の実現」は神の意思が実現することを意味しているようで、それは歴史の中で表現されてきたと言うことでしょう。イエスにとっては、神の意思に従うという自身の決断であり(14:36)、その再確認です。弟子たちの暴力的な抵抗も、神の意思を妨げるものでしかないと言うことです。
男性の弟子たちは全てに逃げてしまったことが記されています。指導者の逮捕です。それに従う者たちも逮捕される危険は非常に高いのです。唐突にある若者が裸で逃げた話が挿入されています。マルコ福音書を著作したマルコではないかと言われますが、何も証拠はありません。それよりも、男性の弟子が逃げてしまったことの例としてこの出来事が述べられています。醜悪に描くことで、弟子たちの逃亡がイエスに対して顔向けできないものとして意味を持たせています。
神の計画
イエスを捕える側の首謀者として、祭司長・律法学者・長老などのユダヤ教指導者を挙げています。そのユダヤ教の権威の下に、群集と呼ばれている人々が武装してイエスを逮捕しようとします。逮捕する側としては、イエスの弟子の中に内通者(裏切り者)を求めました。弟子たちはイエスを見捨てることはないと大言壮語しましたが、実際にはイエスの逮捕の前になす術もなく逃げ去ってしまいます。
このようなドロドロとした出来事や人間関係は全てイエスを逮捕するための舞台装置の役割を果たしていると同時に、この不当逮捕は本日の聖書箇所では「聖書の言葉の実現」との言葉でもまとめられています。イエス自身が、この逮捕や苦難は神の意思であるので抗議をしたり抵抗したりすることは無駄であると認めているかのようです。それどころか、このような逮捕劇も神の意思に基づくものであり、神の意思には誰も逆らえないし、逆らうことは罪であると言うような理解を持つ人もいるかもしれません。イエスはそのような神の意思を演じたに過ぎないと言う議論も生み出されます。
人間の選択
しかし、イエスも彼を取り巻く人々も神の計画のためのロボットではありません。不当な逮捕は人々が自らの意思を持って計画したもので、それを神の計画とすることによって彼らへの責任を免除することは出来ません。この世で多くの人々が不正で苦しんでいます。それを神の計画として正当化して、苦しんでいる人々を放置することは神の意思に適っていません。もしイエスの不当逮捕を神の計画として放っておくとするならば、苦しむ人々を放っておくことにつながってしまいます。それは世の中の不正を暗黙のうちに認めることになります。
では、イエスが苦しむこと、それが神の意思であるという聖書の記述はどう考えるべきでしょうか? 不正の溢れているこの世の中で、神の意思に従い、それを語り、実現しようとするときに、その人は世から捨てられて、不当な扱いを受け、苦しむということを表していると考えられます。イエスは神に従いきろうとしましたが、その結末は不正によってもたらされる迫害の死であるということ、神に従うときにそのような死は避けられないと言うことです。マルコ福音書はそのような厳しい見方でイエスの生涯を綴り、その死を神の意思に従った結果として示します。そのような意味では、この不当な逮捕や裁判の記述は歴史的な事柄であるとはいえ、不正によって殺されるイエスの最期を象徴的に描き出しています。
聖書の言葉は、人間が神のロボットになることによって実現したのではありません。神に逆らう人間の意思と、神に従おうとしたイエスの意思のぶつかり合いの中で実現したのです。そこで問われるのが私たちの意思です。神の意思に従うのか、神の意思に逆らうのか? 聖書は(迫害があるにせよ)神に従うことが命の道であることを証言します。私たちが命に至る道を見つけ出し、神に従うことが出来ますように。それが自分だけではなく、多くの人々に命をもたらしますように。