「イエスの母、兄弟」

マルコの福音書 3:31ー35

礼拝メッセージ 2020.10.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,人間関係の中に来られたイエス

たとえ全体の基礎となる話

 今日の箇所のテーマは、イエスが示された「神の家族」です。現在、新型コロナウイルス感染の状況下にあって、社会にいろいろな問題が起こっています。そしてその問題のいくつかは、これまで見過ごされてきた課題、あるいは表面化していなかったが、実は存在していたものが、このコロナ禍によって浮かび上がって来たと言われます。その中の一つが、家族の問題であるのかもしれません。コロナの影響で家族の多くが自宅にとどまる時間が増えたことで、平和に見えていた関係にひびが入るようなことが起こっていると聞きます。あるいは、この状況下でストレスを抱え、孤独感を覚えるようになることもあるでしょう。そういうことを報道で聞くと、家族って一体何なのだろうかと考えてしまいます。
 前回のところで、イエスのことを彼の家族はこのとき全然理解ができていなかったことを見ました。6章3節には、イエスの肉による家族の名前が出て来ます。「マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか」。父のヨセフはすでに亡くなっていたのかもしれませんが、イエスには家族として、母マリアと四人の男兄弟たちと妹たちがいたことが記されています。
 もちろん、イエスはおとめマリアから超自然的に聖霊によって生まれたことがマタイとルカの福音書に記されています。しかし、この福音書で明らかにされていることは、イエスは誰とも繋がりを持たないかたちで孤高の存在としてこの世界にポツンと来られたのではなく、ある家族のもとに人間の赤ちゃんとしてお生まれになったということです。それは、神の子イエスが、私たちの人間関係というものの中に、入って来てくださったことを意味しています。この複雑になりやすく、壊れてしまいやすい、家庭や親族という人間関係の中に来られたのです。


2,だれでもイエスの家族になれる

 確かに家族と言っても、いろいろ難しいことが起こります。イエスの場合、家族は彼がどなたであるのか、その真の御姿を全く理解していませんでした。母はイエスを大切に育て、「わが子イエス」と呼んで愛しかわいがったでしょう。また、兄弟たちや妹たちはイエスを長兄として慕い敬って「わが兄イエス」と呼んでいたことでしょう。しかし、彼らは決してこの方に対して、「わが主イエス」とは呼べなかったのです。もちろん、後にはそう呼ぶ日が来るのですが。
 ですから、31節には彼らのイエスに対するその心を示していることばが書かれています。それは「外に立ち」ということばです。おそらく彼らはこの時、その中に入って行って、直接イエスに話しかけることができたでしょう。しかし、それができなかったのです。彼らは親しい存在であるように見えながら、イエスが示されている神の家族の輪の中には、距離を取って入ることをしなかったし、できなかったのです。心理的にも信仰的にも彼らはアウトサイド(外側)に立っていたのです。私たちはどうでしょうか。イエスの家族として、彼を真ん中にして、車座になって、その輪の中にいると思えているでしょうか。日本語には、敷居が高いということばがありますが、神の家族として中に入って来ることは敷居が高いと感じていないでしょうか。33節以降にイエスが語られているように、この方の家族、親族になるためには、ただ、イエスのもとへ行き、そのそばに座り、とどまるだけで良いのです。ルカの福音書には、群衆のひとりがイエスの母親になれたらどんなに幸いなことかと主に言われた記事があります。『あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。』と言ったのです。イエスはそれに答えてこう言われました。『幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』(ルカ11:27〜28)。
 マルコの福音書3章に戻ると、34節と35節でこうイエスは言われています。「御覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」。ここに「だれでも」と言われています。何か特殊な能力を持っているとか、特別な血筋である必要はないのです。だれでもイエスの家族になることができます。神の家族になるように招かれているのです。外側で立っている必要はありません。イエスは皆様を招いておられます。神の家族という新しい家族のかたちをイエスは示されました。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:12〜13)。イエスを信じ、そこに連なることによって生じる霊的な絆というものがあるのです。


3,神のみこころを行うイエスの家族 

 マルコの福音書では、イエスがご自分の家族と呼べる人たちについて、それは「神のみこころを行う人」であるとしています。「神のみこころを行う」とは何をすることなのか、一言では言い表せないと思います。ただ、この箇所が明らかにしているのは、イエスが「わたしの兄弟、母」と言われた人たちは、32節では「イエスを囲んで座っていた」とあり、34節では「ご自分の周りに座っている人たち」としています。イエスの周りに座っている人たち、イエスのそばにいた人たち、これが大事なこととされています。先程の「外に立つ」こととは対照的なことです。以前見た14節に「彼らをご自分のそばに置くため」とありました。イエスが任命された十二人の使命の第一の務めは、イエスのそばにいることでした。
 別の角度から言えば、イエスの周りに座るために、あなたの席はもうすでに用意されているということです。ちゃんと座るところが確保されていて、あなたが居るべき「居場所」が設けられているのです。ここに居ても良いというだけでなく、あなたが来なければ空席になってしまいます。ぜひここに来て座って欲しいという主の願いがあるということです。そしてそこに来れば、真ん中にはイエスがおられて、そして同じように主に招かれた兄弟姉妹がいます。34節にあるように、イエスは私たち一人ひとりに彼のまなざしを向けられ、「見回して」おられるのです。そしてあなたがおられることを喜んでおられます。実に、神のみこころを行うことは、そこから始まるのです。また、そこからしか始めることができないのです。そして神の家族、イエスの家族となった者たちが築くこの新しい愛の共同体を、聖書は「教会」と呼ぶことになっていったのです。