「イエスの死」

マルコ福音書 15:33-41

礼拝メッセージ 2022.2.27 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


イエスの死

 第6時(現在で言えば正午)になって、全地に闇が覆います。この記述は、アモス書9:8の記述の反映と考えられています。その闇は第9時(現在の午後3時)まで続きます。イエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ サバクタニ」と叫びます。アラム語で「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのか?」という意味です。これも旧約の引用で、詩篇22編の冒頭の言葉です。非常に絶望的な言葉であり、イエスの最期が近づいていることを暗示しています。イエスは絶叫とともに死にます。
 そのときに、神殿の幕が上から下まで裂かれたとあります。神殿の幕は礼拝場所を分ける象徴です。幕が避けた意味は、2通り考えられています。1つは、イエスが死んだことによって神に至る道がすべての人々に開かれたとする理解(ヘブル書10:19-25)。もう1つは、神殿の崩壊を予見する出来事という理解です。ここでは後者の意味と理解しておきます。
 ローマ兵である百人隊長の言葉が記されています。イエスの死に様を見て、イエスを「神の子」として認めます。神から特別の選ばれた者という意味でしょう。通常、神から選ばれた者は栄光の内に過ごし、祝福のうちに生を全うすると考えられがちです。しかし、人と神とから見捨てられたイエスの姿のうちに神の選びが逆説的に見出されたのです。


イエスの死の意味

 イエスの絶望の言葉は詩篇22篇からの引用で、かねてから2通りの解釈がされてきました。1つは、この詩篇は絶望の言葉で始まりますが最後は神への賛美で終わるので、イエスの叫んだ意図は神への賛美であったというものです。もう1つは、イエスの絶望の言葉はそのまま理解すべきであり、イエスは絶望のままに死んだという捉え方です。マルコ福音書の受難物語の書き方を見ていくときに、イエスが神に対して絶望感を持っていたと理解する方が相応しいように思われます。マルコ福音書はイエスを十字架と言う絶望と死の恐怖に追い込んでいきます。もちろんイエスは神に従う覚悟を持って、逃げることをせずに十字架に架かりました。しかしそれは、これまでの親しい神との関係を維持できたという保証にはなりません。神への深い信仰を持ち、人に仕えることを選び、それゆえに権力者たちと対立した結果が、十字架上で見捨てられ殺されたのです。簡単には納得いくものではありませんが、「神の賛美」という考えを持ち出して、イエスの死の意味を和らげるわけにはいきません。
 マルコ福音書によれば、神はイエスを特別に愛したことが宣言されています。1回はイエスの洗礼の時であり、もう1回は山の変貌のときです。ですが、最もイエスの人生で重要なポイントである死の時に、しかも無実の罪で暴力によって抹殺されようとしている時に、正義を果たすはずである神は沈黙します。人間の暴力の前では、神の力など無力であるかのようです。だがここで面白い記述があります。イエスを十字架につける側にあったローマの百人隊長が、イエスを「神の子」として告白しています。ローマ人が「神の子」といえばローマ皇帝を通常は意味しますが、ここでは文脈からそのようには理解できません。ローマ兵士が罪人を皇帝の代わりに「神の子」と呼ぶことは非常に危険でした。2回もイエスを「私の愛する子」と呼んだ神の沈黙の代わりに、異邦人であり、しかもイエスを殺害した側の人間がイエスを「神の子」と呼んでいます。十字架においては「神の子」宣言は天からではなく、人間によって行われているのです。マルコ福音書の基本的な視点として「人間」ということがありますが、神がすべき宣言を人間が代わりに告白の形で行っています。


模範としてのイエス

 マルコが恐れていたのは、イエスを通した神信仰と言いながら神(あるいはイエス)を神棚に祭り上げて、たた単に宗教的な信仰生活で満足することでした。神への信仰が生活の中で真に生きるためには、人間の視点を欠くことは出来ません。イエスの生涯と死は、そのような視点をもつ神への信頼・神への服従の模範ということです。イエスは神との関係を失い、それを絶望の叫びとして表現しました。私たちはそのイエスの絶望を和らげずに、真摯に受け止めたいと思います。私たちが神に忠実であろうとすればするほど、私たちは自分や周りの人々(時には神自身)への絶望の経験をするからです。しかし、それは私たちの神への信頼を根付かせるものとなっていきます。人間の視点を持って、もう一度神への信頼を確認したいと思うのです。