「イエスの権威に対する問い」

マルコの福音書 11:27ー33

礼拝メッセージ 2021.8.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスを裁こうとする人たち

 神殿の庭を歩いておられるイエスに対して、近づいて来たのは、祭司長、律法学者、長老のそれぞれの集団でした(すべて「〜たち」と複数形で表されています)。彼らが一団となってイエスのもとを訪れたということは、すでにイエスのことで彼らが話し合いをして、議会で問題に挙げていたからでしょう。18節に戻るとすでに祭司長たちと律法学者たちのグループが「宮きよめ」の事件を見て、いかにしてイエスを滅ぼそうかと相談をしていたことが記されています。11章最初のエルサレム入城から、受難週のカレンダーは回り始めています。第一日目である日曜日にイエスの一行は民衆のホサナの歓声のうちにエルサレムに公的に入城され、二日目の月曜日に「宮きよめ」を行われました。翌日の火曜日になって、枯れたいちじくの木を見て弟子たちにイエスは教えられてから、再びエルサレムに入られ、この祭司長たちとの対決がなされました。この数日後に、イエスは十字架につけられるのです。その観点で考えると、すでにイエスに対する反対者たちの陰謀と攻撃はこの時点において始まっており、逮捕、裁判、判決、十字架刑という流れが予期される今日の箇所であると言えます。祭司長たち等が、イエスを亡き者にしようとしていたということです。この権威問答の場面は、彼らがイエスに挑み、糾弾しようとしたところからわかるように、このあとイエスを死に定めるために持たれることになる不当な逮捕と裁判の言わば予審のようなものになっているということです。


2,イエスに裁かれる人たちの罪ー殺意、欺き、悪巧み

 祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちこそが権力を持っている者として上に立っており、ナザレから出て来たこのイエスという人をわれわれこそが詰問し、裁いていく者であると思い込んでいました。しかし実は彼らのほうが主の御前に立たされ、全く逆に裁きの座に置かれていたということです。「何の権威によって、これらのことをしているのですか」という問いは、イエスを罠にかけて、罪と死に定めるためのよく考えられた質問でした。もしここでイエスが「天あるいは神の権威によって行っている」と答えてしまうと、その場で冒瀆の罪だと断罪されてしまいます。しかし反対にもし何の答えも示さないとなれば、神殿内において無許可に勝手な行動をしたということでやはり即座に捕らえられてしまうことになったでしょう。12章からのたとえ話でイエスは明らかにされていきますが、その動機は彼らにとって目障りな存在であるイエスを消してしまうことでした。そこには主に対する憎悪や怒りの思いがあったことでしょう。パウロがローマ人への手紙1章で挙げている罪のリスト(ローマ1:29〜30)の中の「ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み」に相当するものが彼らの中にはっきりと認められるのです。


3,イエスに裁かれる人たちの罪ー天からの権威を認めない不信仰

 さらに、彼らの罪は「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい」(30節)というイエスの逆尋問のような問いで明らかにされていきます。この問いは彼らの悪巧みを退けてしまうばかりか、イエスの間違いを問うはずの彼らがかえって彼らの不信仰を暴き出されてしまうことになるという、知恵深い質問でした。ここでまず注目すべき点は、「ヨハネのバプテスマは…」であって、「バプテスマのヨハネは…」とは言われなかったことです。ヨハネその人に対することと言うよりも、そのヨハネが行っていた、神から命じられた働きであった「悔い改めのバプテスマ」というそのわざについて、イエスは問われました。ヨハネによって施されたバプテスマの権威がどんな根拠に基づいて行われたものであるのかを、彼らに聞いたのです。
 この福音書では1章から、イザヤ書によって示されていた「荒野で叫ぶ者の声」であるヨハネが出現するところから始めています。ヨハネは『罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を教え、エルサレムの住民皆がバプテスマを受けていたのでした。そしてイエスもそのバプテスマを受けられて公的な宣教の歩みに入っていかれたのでした。ヨハネが行ったバプテスマはエルサレム神殿内で行われたものではなく、ヨルダン川流域の荒野でなされたものです。当然、宗教的指導者であった祭司長たちの権威と許可を受けて行われたものではありませんでした。彼らとしては、人々が神の前に罪を告白しバプテスマを受けたことは問題ではありませんでした。彼らの持つ権威を無視し、許可なしに行われた行為に対して強い嫌悪感を抱いていたのです。ですから、「天からか、人からか」と問われれば、彼らは躊躇なく「人から」出たと答えたでしょう。けれどもそれを言ってしまうと、この問答を聞いていた彼らの周りにいる群衆に何をされるかわからず恐ろしかったので、「分かりません」と答えてしまったのです。
 しかし、このことにより、彼らが天からの権威というものを認めない不信仰者であることを明らかにしています。31節後半で彼らは論じ合って「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう」と言っています。ここで「信じる」という表現が出ています。さらに「彼らは群衆を恐れていた」と書いています。結局、彼らは群衆を恐れる一方で、天の権威を認めることもせず、人生において信頼すべき真の拠り所という存在を何も持っていない人々であったことをこれらの態度で示してしまったのでした。


4,イエスによる判決とすべての人への問いかけ

 こうした彼らの答えに対して、イエスはどう仰せられたでしょうか。33節が彼らに対するイエスの判決のことばと言えるでしょう。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません」。この「あなたがたに言いません」ということばはたいへん重い響きを持っていると思います。なぜなら「わたしはもうあなたがたに対しては何も言いません」ということですから。それは神から「もうあなたたちのことは知りません」と言われたのと同じだからです。ローマ1章の表現で言えば、「神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」(ローマ1:28)ということになるでしょう。彼らの欲望と放縦に捨て置かれたということです。この箇所から、イエスを裁こうとしていた人々がかえって裁かれているということを見てきましたが、断罪されるべき反対者である祭司長らの姿は、私たちと無関係なことではないと思います。私たちは天からの権威、神の子である王として振る舞われるイエスを、今受け入れているでしょうか。イエスの権威を認めて、へりくだって歩んでいるでしょうか。エルサレム神殿内を自由に広く動き回られたイエスは、その中をきよめて行かれましたが、そのようにイエスは今も私たちの間で働かれ、自由に動いて、不要なものを取り除いていかれます。私たちの日常において、家庭、仕事、全領域において、ご介入なさいます。触れて欲しくないところまでもイエスは来られます。私たちには真の権威はありません。天においても地においても一切の権威をお持ちのイエスに、すべてを明け渡していきましょう。