「イエスの復活」

マルコ福音書 16:1-8

礼拝メッセージ 2022.3.13 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


女性の弟子たちの証言

 安息日の終了(現在の土曜日の日没)とともにイエスの女性の弟子たちは、イエスの遺体に塗るための香油を買い求めました。安息日には買い物が制限されていたためです。週の初めの朝は、現在では日曜日の朝(早朝)に当たります。その時間に女性たちが墓に向かいます。イエスの遺体を処理しようとするにはこの石を取り除かねばなりませんでしたが、石がすでに転がされていました。墓に入ると、一人の若い男性が座っているのを彼女たちは見ます。そしてそのことで非常に驚いています。そこでこの若い男性が彼女たちに告げます。「驚いてはなりません。十字架につけられたナザレのイエスは、起こされました。墓にはいません。」と言って、イエスが納められていた場所を示します。実際に、イエスの遺体はそこにはなかったでしょう。ここで、「起こされた」という言葉が用いられていることに注意しておきたいと思います。イエスから見れば自分で復活したわけではなく、復活させられたという考えが表現されています。神の主導権の下で、イエスは起こされたのです。若い男性の告知が続きます。イエスの男性の弟子たちに、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くこと、弟子たちはそこでイエスに出会うこと、それが告知の内容です。つまりエルサレムを離れて、イエスの宣教場所であるガリラヤに帰ることを命じているのです。それはイエスの生前の告知の通りであると証言されています。女性たちの更なる驚きが記されています。墓から逃げ、正気を失ってしまいました。彼女たちは恐ろしかったと福音書は報告して、唐突に福音書全体を閉じます。


復活の意味

 4福音書はいずれもイエスが墓の中から「起こされた」(復活した)ことを報告しています。しかし、いずれも復活した瞬間の出来事は述べていません。復活の告知であったり、遺体のない空の墓であったり、イエスが弟子たちに現れた様子(顕現という言葉が使われる)が記されているだけです。
 マルコの復活物語の特色の1つは、復活の出来事と永遠の命とが結び付けられていないことです。死に打ち勝ったキリストは信じている者に永遠の命(心でも生きる命)を約束している、そのことはヨハネ福音書や新約に記されている手紙などには述べられています。しかし、マルコ福音書では永遠の命に対する関心はほぼありません。イエスの最初の宣教の言葉「神の国」は、信じた者が死後にいく場所を指しているのではなく、この地上で神の価値観が実現していることを指しているからです
 第2の特色としては、青年(天使であろう)の言葉の中に「復活のイエスはガリラヤに向かう」ことが述べられていることがあります。イエスの活動の拠点は周縁部(田舎)の、中央であるエルサレムや実質的な支配者であったローマから抑圧されたガリラヤでした。イエスが神の意志を行ない、社会から捨てられた人々に福音を語り救いの業をなしたのはガリラヤでした。


模範としてのイエス

 マルコ福音書が、イエスの顕現を記さずに復活の告知だけにとどめて記したこと、永遠の命の問題を実質的に取り上げなかったこと、エルサレムを否定して(ルカ福音書とは対照的に)ガリラヤ地域にこだわったこと、これらは何を意味するのでしょうか? やはり、イエスの生き方を福音書は描きたかったということでしょう。初代教会ではイエスの生涯についての情報はある程度には行き渡っていたと思われます。しかし宣教を急ぐあまり、イエスの生涯を告知しない宣教というものがありました。実際、パウロの手紙を見ていくと、ほとんどその生涯には興味を示していないように見えます。しかし、神に従う者としての現実的な模範がイエスにあることを思い起こさせる必要をマルコには感じられていました。イエスの生涯に焦点を当て、特にその十字架の死に強調することで、一方で弟子の無理解を暴き出すことで、本当にイエスに従う者の姿を伝えようとしたものと思われます。唐突に終わる、ある意味では不自然な終わり方をしている結末は、読者にもう一度マルコ福音書を読ませて、イエスの生涯と死を理解し直させる意味があったと主張する新約学者がいます。
 マルコ福音書が語ろうとしているのは、(凄まじい)イエスの生涯と死が私たちの歩みの模範であること、イエス価値観が神の価値観であること、そのことを確認していただきたいと思います。その凄まじさを和らげることなく理解していく中で、マルコの言う福音が私たちを通して実現していくのです。神がその業をしてくださるように。