「イエスの変貌」

マルコの福音書 9:1-10

礼拝メッセージ 2021.5.9 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.神の子イエスの威光

 本日の聖書箇所は9章1〜13節ですが、1節は8章の続きで、2節とは少しの時間の隔たりがあります。イエス様が1節の言葉を語られたのは、8章で初めてご自分の死と復活について明確に語られた時のことでした。弟子のペテロは、イエスこそキリストであると告白したものの、死については理解することができず、そんなことがあってよいものかと、イエス様をいさめてしまいます。まさか文字通りにイエス様が殺され、よみがえるお方だとは思っておらず、このことについて弟子たちは続く9章においても無理解のままであったようです。

 イエス様が1節で語られた「ここに立っている人たちに中には、神の国が力を持って到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます」ということばについては、どの時点をもって「神の国の到来」と言えるのかということに様々な解釈があり、確かな意味は分かっていません。また、“死を味わう”という表現は、肉体の死を意味しており、“永遠のいのち”という概念とは関係していないと考えられます。ただ、ここで強調されているのは、「神の国の到来がいつであるのか」ということではなく、「神の国が非常に近い」ということだと言えます。

 弟子ペテロとヤコブ、ヨハネが山上でイエス様の神々しい御姿を見たのは、それから6日後のことでした。イエス様は神の子であられるので、このような神秘的な出来事はあってもおかしくないものです。しかし、意外にも、このようにしてイエス様の威光が現れている場面は、マルコの福音書においてこれが初めてのことのようです。
 弟子たちは視覚的に、神の子としてのイエス様の威光を目の当たりにしました。そして、それは恐怖に打たれるほどのものでした。イエス様の衣は白く輝き、その白さはこの世のものとしてはあり得ないほどであったことが書かれています。マタイの福音書の平行箇所には、「顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった(17:2)」とあります。このような記事を私たちが読むと、普通の人間だったイエス様が神々しい御姿に変化なさったと思い、イエス様が“変貌”なさったと認識します。
 しかし、よく考えてみると、たしかにイエス様の御姿はこの時に変貌なさったのですが、イエス様が最大に変貌なさった時というのは、イエス様が受肉なさって、人として地上に来られた時であったはずです。むしろ、ペテロたちが見たイエス様の神々しさは、おそらく本来の御姿に近いものであり、福音書に登場する人間としてのイエス様こそ、驚くべき変貌を遂げた御姿なのです。イエス様とは、受肉という変貌を通して、様々な痛みを受け入れてくださったお方であることを私たちは覚えたいと思います。


2.神こそが、イエスが神の子であることの証人

 ペテロたちは、旧約聖書の重要な登場人物であるエリヤとモーセもそこに現れて、イエス様と語り合っているのを見ました。旧約聖書において、エリヤは預言者の代表的人物であり、モーセは律法に関する代表的人物であると言えます。ペテロは混乱して、「幕屋を3つ造りましょう(5節)」と軽率な発言をしてしまいます。
 そのとき、雲がわき起こって、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け(7節)」。これには、1章11節においてイエス様が受洗なさった際に天から聞こえた「あなたはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という神様の御声が思い起こされます。

 ペテロは8章において、イエス様のことを「あなたはキリストです」と告白しましたが、イエス様に対する理解は不十分でした。さらに、イエス様が十字架に向かわれた際には、イエス様を見捨てて逃げ出してしまうことになります。ですから、この時のペテロの信仰告白は、正しいものではありましたが、本質的なところは無理解であり、イエス様への従順さにおいても不安定さが否めません。
 しかし、神様のことばはそれとは違います。イエス様について、神様ご自身が、「わたしの愛する子」と明言しておられるのです。これは弟子たちの不安定さの残る信仰告白とは異なります。絶対的なお方のことばには、絶対的な確かさがあります。天におられる神こそが、イエスが神の子でありキリストであることの絶対的な証人なのです。

 山上におけるこの場面を、イエス様が受肉されたお方であるという視点で見るならば、弟子たちにとっては驚くべき神秘的な時間である反面で、十字架に向かっておられるイエス様にとっては、大きな励ましを得る時であったことが想像できます。天の父は「彼の言うことを聞け」と、弟子たちに命じておられるだけではなく、イエス様の歩みを後押ししておられるようにも見えます。エリヤとモーセと語り合った時間も、おそらくイエス様にとって同じ方向を見ることのできる人たちとの時であり、大きく力づけられたのではないでしょうか。


3.栄光を捨てて、死を通られたお方

 イエス様が弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない(9節)」と命じられました。その後、実際にイエス様がよみがえり、天に昇って行かれたのちに、ペテロは次のように語っています。
 「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。この方が父なる神から誉れと栄光を受けられとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ(第二ペテロ1:16、17)』」。
 ペテロはこれらのことが創作話ではないことを明言しています。彼はイエス様が死なれたことによって一度は絶望を通りましたが、よみがえられたイエス様との再会を経て、イエス様がこれまで語ってこられた「殺されて、よみがえる」ということの意味をようやく理解しました。ペテロの生き方が本当に変えられたのは、イエス様の死とよみがえりだったのです。
 威光に満ちたイエス様が受肉なさったということがすでに驚くべき出来事ですが、その受肉の最大の目的は、イエス様の死とよみがえりにありました。イエス様が輝かしさとはかけ離れた非常に惨い道を通られて、私たちにいのちが与えられたのです。
 神の子であるイエス様が威光に満ちたお方であることは言うまでもないことですが、実際はその輝かしさや華々しさとは対極にある道を通ってくださいました。私たちは、美しものや荘厳さを感じるものだけからイエスの威光を見ようとするのではなく、イエス様のよみがえりによって死の痛みをなかったことにするのでもなく、輝かしいはずのお方が多くの痛みと悲しみを負ってくださったことに思いを寄せたいと思います。