「イエスのみことばを思い出して」

ルカの福音書 24:1ー11

礼拝メッセージ 2016.3.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか(1−5節)

 キリストのご復活についての記録は、新約聖書の四つの福音書に各々記されています。それぞれ読み比べてみるといろいろな発見があると思います。私は福音書から語るとき、多くの場合、「シノプシス(共観表)」という本を使って、別の福音書の同記事と読み比べをします。すると、その福音書だけが記録している言葉や表現があることにすぐに気づきます。今回はルカの福音書のその点を中心にして、見ていきましょう。
 イエスのご遺体に香料の処置をしようとして来た女たちが、遭遇したのが、輝く衣を来た二人の人、それは御使いたちでした。彼らが語ったこの福音書にある最初のセリフが「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」(5節)でした。イエスが生前に語っておられたように、死からよみがえられて、墓の中にはおられないのです。「死人の中で」捜しても見つけられないのです。このことばは、ここで女たちが実際に聞いたことばでしたが、その意味するところは今もすべての人に対して語りかけられているメッセージです。
 イエス・キリストは確かに歴史上の人物であり、私たちと同じように肉体を持った一人の人間として地上生涯を送られました。けれども、人類史上、まだ誰も経験したことのない、完全な復活をなさいました。イエスは、もはや二度と死ぬことのないよみがえりをされたお方です。
 人間の限りある知識や能力でイエスという方を把握しようといくら努力しても、正しい理解は得られません。5節の「捜す」は継続的なニュアンスが込められています。いつまで、あなたがたは捜し続けるのですか、という感じです。墓の中に求めることをあきらめて、「生きている方」であることを認め、心に受け入れなくてはなりません。この御使いの言葉に似た表現で、十二歳のイエスご自身がこう言われています。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」(ルカ2:49)。イエスがどのようなお方であるかを聖書より聞いて学び、あなたの前に生きて働いておられる方として認め、受け入れて、信頼しようではありませんか。
 また、今日の聖書箇所では、復活されたイエスは登場されていません。ただ、何か途方もないようなことが起こった気がするという感覚が、その場にいた女たちの思いを捕らえていました。少し逆説めいた言い方にはなりますが、目に見えず、見出さなかったことがかえって、このキリストの復活という歴史的大転換の出来事を予兆させ、さらに信じるための証拠としてここに語られているのです。邦訳では省かれているのですが、2節は「彼女たちは見出した」3節は「彼女たちは見出さなかった」という「見い出す」という意味の単語が繰り返されています。彼女たちが見たのは、お墓の蓋である大きな丸い石が動かされて、お墓が開いていたということです。3節の「見出さなかった」は、「主イエスのからだを、彼女たちは見出さなかった」と直訳できます。空の墓、遺体がない、「ここにはおられません」(6節)と、復活の第一の証拠は、イエスのからだがお墓になかったことなのです。見出さない、存在しないことが復活の証明の第一番目であることは、やはり不思議なことです。けれども、これがイエスを主として、信じ受け入れる信仰というもののあり方を表しているように思います。
 このあとのエマオ途上の復活の主の顕現においても、彼らの信仰の目が開かれ、目の前におられる方がイエスであるとわかった瞬間に、肉眼ではイエスは見えなくなられたのです(ルカ24:31)。信仰の定義としてよく知られている言葉に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)とあり、復活のイエスを目撃したペテロは手紙にこう書いています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ1:8)。見せてくれたら信じてもいいと私も過去、何人かの人から言われましたが、信仰は自分の力で「見る」(あるいは捉える)ことではなく、神によって「目が開かれる」(ルカ24:31)経験なのです。


2,お話しになったことを思い出しなさい(6−11節)

 次に、御使いたちが語った大切な真理は「みことばを思い出しなさい」でした。この箇所でのみことばとは、イエスがかつて話された内容を指しています。そのエッセンスは、続く7節にあります。「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」。これはイエスの話された核となることばの要約です。続く24章の中で、復活されたイエスご自身が語られたことばを見ると、それは旧約聖書全体の完成(成就)となるイエス・キリストの福音でした。たとえば44節に「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」聖書全体が一つの方向を指し示しています。それがイエス・キリストであり、この方の中心的な御業が「引き渡されること」「十字架につけられること」「復活させられること」でした。
 神の永遠の定めとしてイエスのことばに聴き、あるいは聖書全体のメッセージを聴き、理解を深めていくと、その中に自分の人生の歩みがリンクしているばかりか、その中に含まれていると気がつくでしょう。もはや自分の人生の中にみことばを取り入れるのではなく、みことばの中に私たちの人生が取り込まれていくのです。イエスの語られたことばを思い起こすとは、そういうことです。「みことばを思い出した」人は、この福音を宣べ伝える人、イエスの証人とされていきます。