「イエスがメシアであると告白する」

マルコ福音書 8:27-30

礼拝メッセージ 2021.4.25 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


イエスとはだれか?

 ピリポ・カイザリヤという地域でイエスと弟子たちの問答が始まります。弟子から質問をしているのではなく、イエスの方から弟子たちに問いかけをしています。イエスは弟子たちに何かを教えたかったのです。それは31節以下に記されています、イエスがどのように死ぬのかということ、そして復活するということです。しかしその前にイエスは弟子たちに、人々がイエスをどのような人物と見ているのか、人々はイエスをどのように評価しているのか、それを問いただしています。ある人々はイエスを洗礼者ヨハネと考えていました。別の人々はエリヤとしていました。別の人は、特定はしないが預言者の一人であると考えていたようです。次に、イエスは弟子たち自身の考えを問います。ここがイエスにとって最も聞きたいことでした。そこで弟子の代表としてペテロが「キリスト」であると返答します。キリストは、ヘブル語のメシアという単語の翻訳で、意味は「油注がれた者」です。古代イスラエルでは、神殿の宗教的な仕事をする祭司、政治的なリーダーである王、また神から派遣される預言者が、それぞれの職務につくときに任職のしるしとしてその人物の頭に油を注ぐことをしていたようです。そこから、イエスが生きていた当時は、イスラエルを外国人から救い出す者、神から遣わされた地上の支配者という大きな意味が込められるようになっていました。弟子たちにとってメシアあるいはキリストとは、イスラエル国家をローマから政治的に解放する者であり、イエスが考える意味でのメシア(神の支配を実現する者)ではなかったと思われます。
 そこで、イエスはその告白を沈黙するように命令します。イエスの宣教の意図と違う意味が込められていたからです。このペテロの告白は実は勘違いの上に成り立っていたことが31‐33節で暴露されることになるのです。


信仰告白の意味

 イエスがキリストであると言う告白はマルコ福音書の冒頭で述べられていますが、弟子が明確に告白することは初めてです。少なくとも、弟子たちがイエスに期待していたことやイエスに対する弟子たちの考えは述べられていることになります。確かにペテロをはじめ弟子たちはキリストについて勘違いしていました。しかし、ペテロの告白を考える上で、その内容以上に信仰告白そのものにおいて重要と思われる性格があります。
 第1に、私たちは同じイエスと言う人物を通して神を知り、神による救いを信じ、神に従うことに招かれていることです。人は様々で、同じ信仰者であっても同じ考えを持つとは限りません。関心事も能力も環境も違います。しかしイエスをキリスト(救い主)として告白するがゆえに、私たちは互いに集まり、神の意思に従うことの意味を探し出すことが出来ます。神の国(支配)運動には様々な人々が集められなくてはなりません。それが教会の中心を奪うように見えるかもしれませんが、このイエスにあって共に集められて、イエスを模範とすることで互いに励まし合い助け合うことに、教会の意味を見出すことが出来るのです。告白がここに大切に響く。何が私たちの中核に置かれるべきか、それはイエスです。ここにブレはありません。
 第2に、ペテロの「信仰告白」を考える上で大切と思われることは、私たちは告白したことに生きていこうとする決断が求められることです。告白には事柄や知識が必要です。しかしそれは知識欲のためではありません。あくまでも、その告白に生きていくことが目的です。イエスをキリストとして告白するのであれば、その告白どおりに生きていくことです。それはただ単に、救われて良かったと言うことだけに留まりません。信仰告白はただ単に「告白」するだけではないのです。具体的に、イエスの生き様・死に様を私たちも経験していくことです。そのことは、イエスの弟子たちへの勧めとして語られていくことになります。いずれにせよ、救われて生き方が変えられたことへの感謝をし、その感謝の中に生き続け(神の価値観に生きること)、それを分かち合うことが神の意思であると言えます。イエスへの信仰告白は、このような私たちの生き方の選択にまで及んでいます。


教会の特権

 ペテロの信仰告白は誤解の上に成り立ってはいましたが、イエスの死と復活の中で真の意味が与えられることになりました。私たちは幸いにもその真の意味を聖書全体から知ることが出来る特権を持ちます。イエスを告白することにおいて、そしてそれが生活の中で本当の意味を持つことにおいて、(個人としても、教会全体としても)イエスを中心に置くという意識を持ち、私たちはイエスの生き方へと変えられたいと思います。