ヘブル人への手紙 12:1ー3
礼拝メッセージ 2025.10.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,雲のように取り巻く多くの証人たちを見渡しなさい
競走というイメージ
当時、ローマ帝国支配下の各地でいくつものコロシアムが建設され、そこでさまざまな競技種目が行われ、人々に多くの感動と興奮をもたらしていたことでしょう。ヘブル書の著者は、誰もが知っている「競走」(レース)を比喩として用い、私たちの生き方について教えています。
1節に「自分の前に置かれている競走」と書かれています。これは人生というものの真実をよく言い表しているように感じます。競走は好きではないし、疲れるから走りたくないと思っていたとしても、現実を見れば、競走のためのフィールドに自分はすでに立っているし、気づけばもう走っている最中であるということです。人生とは紛れもなく、「自分の前に置かれている競走」です。
「忍耐をもって走り続けよう」の文章で想像できるように、これは短距離走ではなく、長距離走です。信仰をもって生きることは、特にその点を気をつけたいと思います。自分自身も覚えがありますが、百メートル走でも走っているかのように、最初からものすごく速く走り出し、段々と燃料が切れたようにペースが落ち、コースの途中で疲れ果てて、レースを諦めてしまうことのないようにしなくてはいけません。疲労や消耗があっても、最後まで走り抜くことが大切です。それを著者は「忍耐をもって」と言い表しています。それでは、その忍耐をもって走り続けるために必要なことは何でしょうか。
過去の聖徒たちに目を向ける
第一に、旧約の聖徒たちとその後の信仰者たちに目を留めることです。11章において旧約聖書の信仰者たちのことが語られてきました。アベル、ノア、エノク、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブなどです。その後の時代の人たちについても、要約的に11章32節以降に述べられていました。彼らは偉大な信仰の勇者のように見えましたが、それは彼らが「信仰によって」生きたから、行動したからであると著者は説明してきました。その意味では、12章1節で「証人」と彼らのことが呼ばれていますが、それは「信仰によって」生きたことを神ご自身が証しをしてくださったということです(11:4〜5)。
彼らが「雲のように私たちを取り巻いている」と書いていますが、それは彼らが観客席で今競走している私たちを見物しているということではないようです。むしろ、今走っている私たちがすでに信仰によって走り抜いた彼らの姿をよく見なさいということです。彼らだって、いろいろな失敗をし、弱いときもあったし、罪に沈んだこともあったでしょう。けれども、倒れてもなお起き上がり、走ることを決してやめなかったのです。彼らは最後までやり遂げたのです。これは、新約聖書時代以降の信仰の人々に対しても、同じことが言えるでしょう。旧約の時代から今に至るまで、多くの主にある信仰者たちが空に浮かぶ大きな雲のように私たちを取り巻いていることを忘れてはならないのです。
2,自分自身をよく見なさい
一切の重荷
二番目に目を向ける必要があるのは、自分自身です。競走しているのに、体に負担がかかるような余分な荷物や装備を付けていないか、確認する必要があります。アスリートたちは、練習時にはあえて体に負荷のかかるものを付けて筋力を鍛えることがあります。けれども、競技の本番ではそのようなものは一切はずしてしまいます。このヘブル書が書かれた時代の競走では、選手はほぼ裸で走ったと言います。信仰の人生において邪魔になるもの、妨げとなる物は、それ自体は特別悪いものでないことも多いでしょう。けれども、競走の際には僅かであってもそれを背負っていることで、思うように走れず、やがて競走を断念させてしまうかもしれないのです。ここで言う「重荷」は自分にとって何であるのか、よく考えましょう。
まとわりつく罪
罪は明らかに私たちの競走を妨げるものです。ここで言われているのはあらゆる罪のことでしょう。たとえば、イエスは人間の内側から出て来る悪をこのように言われています。「人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20〜23)。ヘブル書は罪について大事な指摘をします。それは「まとわりつく」ということです。これは「すぐに絡みついてくる」という意味です。私は時々、森や公園に出かけますが、植物の種でしょうか、ズボンの裾にいつの間にか張り付いて気づかずにそのまま家に持って帰って来ることがよくあります。罪は大きくても小さくても、すぐに絡みついて来るものです。私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨ててしまいましょう。
3,イエスから目を離してはならない
私たちが忍耐をもってこの競走を走り続けるために必要なことの第三は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さない」ことです。これまで挙げられた人々の信仰を見ても、私たちは励ましを受けるでしょうし、教えられることが多くあります。けれども、その立派に見える信仰者たちであっても、決して忍耐できないことを、イエスは完全に成し遂げられました。それが2節後半に記されていることです。「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」。
イエスが忍ばれた「辱め」、また「罪人たちの…反抗」(3節)は、想像を絶するものでした。なぜなら、イエスは神のご性質をもった御子です。創造者である方が被造物の人間になることも全くあり得ないことで、さらに罪なきお方にもかかわらず、極悪犯罪人として扱われ、十字架にかかられたのですから、この落差というか、高低差は人間の頭では到底理解できない屈辱です(ピリピ2:6〜8)。
著者は3節で「あなたがたは…考えなさい」と命じています。私たちが「自分の前に置かれている競走を忍耐をもって走り続ける」ために必要なことの根本は、この十字架を忍ばれたイエスから目を離すな、ということです。この方を見続けよ、深く考え続けよ、それが「元気を失い、疲れ果ててしまわないようにする」ための最大の秘訣です。私たちは生きている限り、忍耐の必要な競走は続きますが、パウロが言うように、やがて栄冠を得ることになることを心に留めましょう(ピリピ3:13〜14、Ⅱテモテ4:8)。
