「イエス、洗礼を受ける」

マルコの福音書 1:9-11

礼拝メッセージ 2020.6.14 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


イエスの登場

 物語の展開上、初めてイエスが登場します。マルコ福音書は、イエスがガリラヤのナザレ出身であること、ヨハネから洗礼を授けられたことのみを述べます。マルコ福音書の特徴としては、イエスの誕生が述べられていないことが挙げられるでしょう。マタイ福音書とルカ福音書では、それぞれの立場からイエスの生誕の経緯について語られています。マタイ福音書では誕生したイエスがメシア(王)であることが示唆されています。ルカ福音書では、誕生時から約束された救い主であることが語られます。しかし、マルコ福音書は、生誕物語におけるイエスに関する告白(メシアあるいは救い主)はあくまでイエスの宣教活動開始に求められるべきである、と記しているようです。つまり、神によるイエスの選びの確証は、この洗礼に求められているのです。イエスの宣教活動の開始、その根拠となる神の選び、それがイエスの洗礼にあります。


イエスの洗礼

 イエスはヨハネから洗礼を受けていますが、これはイエスがヨハネの弟子であることを意味していると考えられます。少なくとも、イエスがヨハネの宣教運動に共感していたことを意味しました。ヨハネは自らの宣教を行い、多くの弟子たちがいたことも分かっています。そのようなヨハネの弟子集団にイエスも一時、加わっていたのです。しかし、イエスはヨハネの弟子であることを続けてはいません。イエスはヨハネのもとから去りました。イエスとヨハネを分けたポイントは何でしょうか?それは、イエスは荒野に留まらずに、町や村となど人が集まる所に帰ったことです。これは、イエスの宣教活動を考える上で、非常に重要です。イエスは現実に苦しんでいる人々に出会い、そのような人々のために神の救済の業を行いました。
 洗礼後、すぐに水から上がると、天が裂けて、霊が鳩のようにイエス自身のところに来たのをイエス自身が見ています。霊の注ぎは、神がイエスをメシアとして任職したことを示しています。古代イスラエルにおいて、祭司や王などの特別な仕事をする人々には、その任職の時に油を注いでいたようです。ここでの霊の注ぎは、そのような油注ぎを象徴した出来事です。メシアとは、油注がれた者という意味です。したがって、イエスへの霊の注ぎは、神の直接的な選びを意味し、メシアとしての任職を意味しています。
 そして、天からの声が聞こえる。もちろん、それは神ご自身の声です。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ(あなたは私にとって適う者)」と宣言されます。神からのことばは、イエスと神との関係を証言します。イエスは神のことばを語り、その業を行う者として生きていくのです。これは、イエスの決意でもありました。その決意は一度、試されることになりますが、イエスは神に従う道を選び、それを進んでいきました。それがマルコ福音書の物語の内容です。


同時代へのことば

 洗礼はヨハネが始めたものではありません。ユダヤ教においても沐浴などが行われていましたし、非ユダヤ人(異邦人)がユダヤ教に改宗するときに行われていた場合もあったようです。ヨハネは、洗礼を人々の悔い改め(生き方の変革)の象徴としていたようです。現代の私たちにとっても、イエスをメシア(救い主)として信じたことの象徴的な儀式で、教会に属する者となったという意味もあります。イエスの洗礼は、神の選びでした。洗礼にともなう神のことば(宣言)は非常に印象的です。積極的で、神とイエスとの関係の親しさを表していると読者である私たちには映ります。このことばはもう一度神から語られます。マルコ福音書9章です。第1回目の受難予告(8章)のすぐ後に、山上でイエスが白く輝き変貌する箇所です。これからエルサレム向かい、権力者によって十字架で殺されることが意識される中でのことばです。そのような厳しい中で、神はイエスへの選びを再確認しました。イエス自身も再び、神に従うことを決意しなければならなかったのでしょう。このような神からの選び、励ましは、実はイエスにとって最も重要である瞬間には神から与えられていません。イエスが十字架に架けれられた時に、神は沈黙を保ちました。これは、大きな矛盾でした。神の宣言とともにイエスは神に従う道を選び、そのように生きてきました。その結果が十字架での死でした。神に従うことでイエスが経験したことは、神に見捨てられることでした(15:34)。それは、主の弟子の生き方を指し示すものであるとマルコ福音書は示唆します。イエスに従うことの厳しさを述べています。しかし、神はイエスをよみがえらせることでイエスの生き方をやはり認めます。キリスト者として生きることには困難はともないますが、それでも神は私たちを受け入れているのです。