「われわれの希望には根拠がある」

ペテロの手紙 第一 3:18ー22

礼拝メッセージ 2020.4.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリストは、私たちのために苦しみを受けられた(18節)

 18節の最初は、「キリストも一度、罪のために…」と始まっていますが、細かく言えば、文の最初に「というのは」(ギリシア語ホティ)が付いています。文の流れからもわかるように、手紙の宛先の人々が善を行って苦しみを受けたり、なぜこんな苦しみを経験しなければならないのか、という心の痛みを抱えている中で、ペテロは自分の苦境にのみ目を留めるのではなく、このお方を見てくださいと語って、キリストのことを語り出したのです。
 「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです」と書いて、キリストが味わわれた受難、そして十字架を思い起こすように、ペテロは読者を励まします。世界的な苦難を通る中、棕櫚の主日を迎えた私たちもこのペテロの勧めに従いたいと思います。イエス・キリストは、私たちの罪のために、苦しみを受けてくださったのです。
私は16世紀のドイツの画家マティアス・クリューネヴァルトが描いた祭壇画「キリスト磔刑図」を、今年は特に心に思い浮かべています。ご存知の方も多いと思いますが、元々この絵はイーゼンハイムという村の聖アントニウス会修道院の療養施設に置かれていました。その絵の十字架につけられたキリストは茨の冠をかぶり、口を少し開いたまま死んでいます。痩せこけたそのからだにはおびただしい数の傷跡が描き込まれています。その凄惨な死の姿は、悲嘆のあまりに倒れそうになっている母マリアとそれを支えるヨハネの姿や、両手を合わせて祈るマグダラのマリアの表情とともに、これ以上無いほどにキリストの死の苦痛の激しさを表しています。そしてバプテスマのヨハネが「この方は盛んになり、私は衰えなければなりません」の文字の下に、十字架につけられたキリストをしっかりと指差しています。
 ペテロの手紙第一が繰り返し語るように、キリストは私たちのために、その罪のために、苦しみ抜いてくださいました。そして、義なるこのお方が不義なる私たちのために、人間の死というものを完全に自らの肉体において経験してくださったのです。表現は難しいことですが、主は徹底的にその死を味わい尽くし、完全に死んでくださいました。


2,キリストは、私たちのために宣べ伝えられた(19〜21節)

 今日の聖書箇所は、今まで多くの人たちを悩ませてきた記述を含んでいます。それは続く19〜21節です。19節と20節を読みます。「その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところへ行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました」。ここで語られていることをどう解釈すればよいか、さまざまな考えが出されてきました。ノアの時代のこと、そしてバプテスマの意味について書いてあることはわかるのですが、この「捕らわれている霊たち」とは一体何を指しているのでしょうか。どうそれを捉えたら良いでしょうか。いろいろな見解はあるのですが、主要なものは、次の三つです。
 一つの理解は、この「霊たち」を、ノアの時代の救われていない人たちであると言います。そしてキリストは、ノアの時代に、キリストの御霊として、ノアを通して、宣教のことばを語ったと考えています。二つ目の理解は、この「霊たち」は、地獄に投げ入れられた最後の裁きの時を待っている堕落天使たちを指していると考えます。三つ目の考えは、地獄にいる者たちのために、キリストが救われるための第二チャンスを与えられたことを示すと言います。議論を詳しく記すことはできませんが、私の理解では、一つ目の見解が一番わかりやすいと考えています。三つ目のセカンドチャンスについては、聖書全体が語っているようには見えない考え方なので、この説を受け入れることはできません。
 いずれにしても、キリストは19節にあるように、宣教のことばを語って、私たちを救ってくださいました。解釈上、ここは「宣言されました」と本文にはありますが、脚注の別訳にあるように、ここは「宣べ伝えられました」とするほうが良いと思います。いつの時代においても、キリストの御霊は、信仰者たちを通して、人々に神のみことばを語られ、神の国の宣教の働きを進めてこられました。そして私たちも救われ、その私たちを通して、キリストの御霊がこの世界に語り続けていかれるのです。しかも、そのことによって、ペテロの語った時代にも、この現代でも、バプテスマという、救いの恵みのしるしを、神は与えてくださっています。ノアとその家族8人が水を通って救われたという出来事の中に、それが今日のバプテスマというものの予型、それを予示するものとなったことをペテロは教えています。


3,キリストは、私たちのために完全に勝利された(22節)

 最後に22節を見ておきたいと思います。21節で「キリストの復活」を記し、この22節ではキリストの昇天を告げています。「イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです」。さて今回の説教題を「われわれの希望には根拠がある」としましたが、それはここまで見てきましたとおり、キリストが救いのみわざを私たちのために完全に成し遂げられたという根拠です。これは、そうなれば良いのに、というような希望的観測ではなく、キリストのみわざを土台とする、必ず成就する希望なのです。
 22節はそのキリストのみわざの完成の局面を示しています。キリストは昇天され、神の右の座に着座されました。この表現は、パウロによるエペソ人への手紙1章の記述を思い出させます。「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」(エペソ1:20〜21)。ペテロの手紙第一の注解書の多くが、この聖書箇所のタイトルを「キリストの勝利」ということばを含んだものにしています。当時の手紙の読者も、現代の私たちも、その苦境の中にあって、失望や敗北感を抱きがちですが、私たちの主であるキリストは、すでにすべてのことにおいて、力と権威を得られ、勝利した王として御座に着いて、この世界を支配し始められたのです。われわれが抱くべき希望は、これらキリストのみわざゆえに、明確な根拠が存在するのです。