マルコの福音書 4:13ー20
礼拝メッセージ 2024.12.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,種蒔く人は、みことばを蒔く(13〜14節)
決して消え去ることのないもの
今年もあとわずかとなりました。一年を振り返ると、個人においても、教会においても、社会においても、いろいろなことがありました。喜びの多い一年を過ごした方がおられたかも知れない一方で、苦しくて辛い日々を経験し、まるで真っ暗なトンネルを通って来たかのように感じている方もおられると思います。さて、私たちはこの一年の恵みと守りを覚えて、主に賛美を捧げるとともに、来たる新しい年に何を携えて歩むことができるでしょうか。やはりそれは、いつまでも変わらず、決して古びず、衰えず、傷つくことのないもの、みことば(神のことば)ではないでしょうか。主イエスは言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:35)。以前の訳では、「滅びることがない」となっていましたし、他の翻訳では「過ぎゆくことがない」とあります。すべてが変化し、夢も希望も見えなくなり、何もかが過ぎゆくように見えても、変わらぬものがあります。その決して消え去ることのないものを私たちは持っています。
種蒔く人のたとえの目的
そこで、有名な「種蒔く人」のたとえ話を見ていきましょう。このみことばはどういう目的で記されたのでしょうか。それは、明らかに主イエスが宣べ伝えている「神の国」について教えるためです。メシアであるイエスご自身が来られて、「神の国」の知らせを説いて、多くの人々がそれを受け入れ、「神の国」が広がっているように見えました。けれども、すべての人が信じて、主に従ったわけではありません。どうして、神の国は、みことばは広がっていかないのか、すべての人々がひれ伏して、主についていかないのだろうか、むしろ、状況としては、反対勢力が来て、妨害が激しくなっているように見えていました。このような疑問について説明し、弟子たちを力づけるために、このたとえは語られたのです。
種は、みことばである
14節の「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」とあるように、みことばが作物の「種」にたとえられています。種は、茎や枝、花などの部分と比べると目立たず、小さいものですが、その固い殻の中に成長する「いのちの力」を宿しています。どんな大きな樹木でも、元は小さな一つの種から生まれたのです。この種の中にいのちが秘められているように、みことばにも霊的いのちが込められています。種は蒔かれた瞬間から、それ自身が備えている成長のプログラムが動き出します。言わば、成長に向かうタイマーが開始するのです。止まることのない時限装置のように時が刻まれていきます。人の目に見えなくとも、それは絶対的な力を持ち、日々働き続けています(使徒20:32、Ⅰテサロニケ2:13)。種は地面の中に植えられますが、みことばは人の心という土壌に植えられます。みことばの種を人の心の中に植えつける以外には、だれも神の国に入ることは出来ないし、その実りを経験することもできません(参照;Ⅱテモテ3:15,4:2、ヤコブ1:21、Ⅰペテロ1:23)。いのちのみことばの種を何とかして人々の心という土地に蒔き続けたいと思います。
2,みことばの種が蒔かれた心の土壌(15〜20節)
道端に蒔かれた種、岩地に蒔かれた種
種は神のことばですから、絶対に実を結ぶようになっているはずですが、なぜ多くの実が見られないのか、主イエスはこのことについて解説します。種が良くても、蒔かれる土地が悪ければ、健全に成長して、実を結ぶことはできないのです。15〜20節で、種が蒔かれた四つの土地のことが語られます。道端、岩地、茨の中、良い地の四つです。
まず、道端に蒔かれた種ですが、彼らはみことばを聞いているが、すぐにサタンが来てそのみことばを心の中から取り去ってしまうと解説されています。道端であるから堅く固められた土地の状態のような心として説明されますが、そこまでのことを示しているのかはわかりません。ただ明確なことは、人がみことばを聞く時、それを持ち去る目に見えない霊的な存在がある、あるいは霊的戦いがあるということです。みことばを語る時も聞く時も、私たちが知覚し得ないものによって妨げられることがあるのです。ですから、御霊によって祈らなければならないのです(エペソ6:18〜20)。
次に、岩地です。「すぐに喜んで受け入れますが、…すぐにつまずいてしまいます」。その理由を「自分の中に根がない」としています。岩地であるから、根を下ろすことができないというイメージです。神のみことばである種が、私たちの人生に根を下ろすことができず、根こぎにされてしまう危機に私たちは瀕しているのかもしれません。さらに、この箇所で注意を引くのは、「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずく」というところです。このことばを語った同じ口でイエスはその後、受難に際して、弟子たち皆がつまずくことになると言わなくてはなりませんでした(14:27)。後に起こる弟子たちのつまずきのことを主は予見され、予告的な戒めとして語られたのかもしれません。
茨の中の種、良い地の種
三番目は、茨の中です。「この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐ」(19節)と語られます。「みことばをふさぐ」とは、「みことばを窒息させる」という意味です。みことばが実を結ぶように育つためには、さまざまな別のもので心を一杯にせず、みことばが入っていける余地を持つということが必要です。そういう心の持ち方が大切です。
遠藤周作の小説『沈黙』で、棄教したフェレイラ神父が、日本はすべての苗を腐らせてしまう「沼地」であると語る場面がありますが、私はそう語られることに真実の一端があるとしても、だから仕方がないとは思いません。「ジャッカルのねぐらを葦の茂み」(イザヤ35:7)に変え、「荒野に水を、荒れ地に川を流れさせる」(同43:20)ことのできる神が、この国をこの世界をこれから必ず変えてくださると信じています。最後に、たとえの説明の結末を見ると、種は良い地にも落ちました。種は育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になります。蒔かれた種は、絶対的ないのちの力を持っています。神の国は、いつかこのように実を結ぶのだと主は忍耐をもって教え続けられたのです。みことばを聞く人になりましょう。そしてみことばの種を蒔く人になりましょう。いのちのことばを握って、進みましょう(ピリピ2:16)。