ローマ人への手紙 10:5ー13
礼拝メッセージ 2017.12.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,みことばを、束縛のために書かれた文字と見ますか、それとも信仰による約束のことばと見ますか?(5〜7節)
イスラエルの救いの問題を論じているパウロは、今日の箇所で彼らの律法の理解や見方に誤りがあることを指摘しています。5節では「…と書いています」とあり、6節では「…こう言います」と記されていますが、これは「書く」と「言う」が対照的になっていると言われます。単純に、書き言葉に対する話し言葉というような区別ではありませんが、「文字は殺し、御霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)とあるように、彼らが、律法すなわち聖書の言葉を法律の条文やルールブックのようにして、文字として表面的に捉え、神の義や正しさという神の御思いを読み取ることなく、むしろ自分の正しさを追求するために読んでしまっているという指摘なのです。
律法を授けられ、律法を一番知っているはずのイスラエルの民が、実は律法の本当の理解に到達していませんでした。そして、かえって彼らの律法理解が、他の人たちを律法から遠ざける結果を生んでいたというのです。「論語読みの論語知らず」ということわざがありますが、それは論語を知っているだけで実践できていない人たちを批判する言葉ですが、イスラエルの民の場合は、必死で実践しようと律法主義に陥り、神の御心を見失った、律法の精神を捉え損なったということでしょう。みことばが束縛のための、死に至らせる書かれた文字となっていたのです。私たちも、彼らの姿から、「聖書読みの聖書知らず」となっていないのかを自分をよく省みる必要があるのかもしれません。
6〜8節は申命記30章11〜14節から取られています。今日の聖書箇所を学ぶために大切なところですので引用します。「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか』と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」申命記が指し示していることは、律法の言葉は、本来、あなたの近くにあるものですよ、ということなのです。ところが、それを遠くにしてしまっているところに、彼らの救いの問題がある訳です。そしてそのみことばは「キリスト」を引き降ろすとか、引き上げると言うように、キリストとの関わりから学び、見ていく必要があるということです。
10章4節を見ると「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」となっています。この「キリストが律法を終わらせた」という言葉は、改訂された「新改訳2017」では表現が変わり「律法が目指すものはキリストです」となりました。「終わり」(エンド)なのか「目指すもの」(ゴール)なのか、どちらにも訳せる言葉ですが、キリストご自身は、山上の説教でこう言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)。律法のゴールであるキリストを通して、律法(みことば)は正しく理解し、生きた信仰による約束の言葉として受け取ることが必要です。
2,みことばは、あなたの口に、あなたの心にあるのです(8〜13節)
旧約聖書の申命記が語っているように「あなたの口」「あなたの心」の中に、あなたの近くに、みことばがもうすでにあるのですから、文字による律法からの義を追い求めるのはもうやめて、神がご自身が義をもって定め、すべての人たちのためにお与えになった神の御子キリストをあなたの心で信じて、イエスを主と告白し、罪の赦しを受けなさいと、イスラエルの人々に語られています。
しかし、私たちはどうでしょうか。みことばが近くにあるでしょうか。現代は、グローバル化が進み、インターネットや様々なメディア等によって情報が、誰でも、いつでも、瞬時に得られます。知る必要の無い情報も氾濫していますが、同時に神のみことばも、福音のメッセージも、いつでも聞くことができる時代です。あなたの近くにみことばがあるし、そして、それを聞いて、心に信じることができる時代です。でも、みことばが近くにあることにおそらく多くの人たちが気づいていないと思います。むしろ遠いものと思い込んでしまっています。でも、みことばは、私たちを待っていますし、世界の多くの人たちに聞かれることを待ちわびています。バルトが言うように、みことばは、いつでも私たちがこれを真剣に受け取るのを待っているし、いつでも力を発揮し、いつも私たちを徹底的に解放しようと待ち構えているものなのです(『ローマ書講解』)。
そしてまた、みことばは、すべての人を救うことのできる、約束のことばであることも覚えておきたいと思います。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9節)。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(13節)。「救われる」と繰り返されていますが、厳密に言えば、この言葉は未来形です。イエスを信じるならば、その時から、だれでも罪の赦しを受け、神の子どもとされますが、救いが完成している訳ではありません。パウロがここで述べていることは、救いの終局のこと、完成を言っています。これは「栄化」(glorification)と神学用語では呼びます。8章で見て来ましたように、信じたら、それですべてが終わるのではありません。「神はあらかじめ定めた人をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(8:30)とあるとおりです。私たちは栄光を受けるまで、御子のかたちに整えられるまで、歩み続けなくてはなりません。約束はすでにいただいています。みことばはもうあなたの口に、心に、与えられています。決して失望させられず、恥を見せられず、恵み深い主のお取り扱いをいただき続けましょう。