ローマ人への手紙 6:12ー23
礼拝メッセージ 2017.7.30 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,2つの道のどちらかを選ぶ自由
死に至る道vs.いのちに至る道
人の歩む道は、それぞれであり、多数の生き方があり、道があります。しかし、それは出発点から見ている視点からのことであって、反対側の終わりから見れば、それは変わります。無神論者であれば、終わりは皆死という一つのゴールしかないと云うでしょう。結局は死に到達するだけだと割り切り、自分の好き勝手に生きることもできるでしょう。でも、聖書はそうではなく、もう一つ道があると断言します。それは永遠のいのちへとつながる道です。パウロのこの6章後半の内容は、聖書の多くのところで見られる、この「2つの道」の存在が前提になっています。申命記の呪いを取るか、祝福を選ぶか、という選択、詩篇1篇にある、幸いな人と悪者のそれぞれの道、イエスが話された狭き門と広い門、どれも「2つの道」という真理を明らかにしています。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13−14)。
この言葉をみると、2つの門と道が提示されています。一方は、狭い門と狭い道、他方は、広い門と広い道です。狭い方は、いのちに至り、広い方は、滅びに至ると語っています。ローマ6章にも「罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(16節)、「不法に進みましたが、…聖潔に進みなさい」(19節)、「それらのものの行き着く所は死です。…その行き着く所は永遠のいのちです」(21−22節)と、死と義、不法と聖潔、死と永遠のいのち、という2つの道の対比が示されています。
狭き門をなぜ選ばないのか
もちろん、誰でも、死を選びたいとは思わないでしょう。いのちに至る道の方がいいに決まっています。不法や不義よりも、正しい義の方を選ぶはずです。ところが、イエスの言葉が示しているように、「門が小さく、道は狭く、それを見いだす者はまれ」です。多くの人が狭い門や道を行かないのです。その理由はいくつか考えられますが、私の理解では、最初にゴールが見えていないことが大きいと思います。門を通って、歩いて行く道は相当長く、ゴールはずっと先で、誰も歩いているときには見えません。そうであるならば、広い門のほうが安心ですし、大勢の人が歩いている道に行くほうが気が楽です。
けれども、狭い門を通って進む狭い道こそ、いのちにつながっている道なのです。このローマ6章では、この2つの道のどちらかを選びなさい、とは直接には言われていません。いのちか滅びか、天国か地獄か、とパウロは読者に迫っているようには見えません。では、何が言われているかと言うと、あなたの人生の主人を選ぶように言われているのです。天国か滅びかという人生の終着駅への関心以上に、パウロは、私たちの「今」を問うているのです。あなたは、誰のために生きているのか、あなたは何のために人生という時間を費やし、その知識やエネルギーを使って生きているのか、という問いかけです。
2,誰を主人として生きるのか?
人間は従属するように造られた存在
誰を主人として生きるかということを考えると、私たちは自由というよりも、何かの奴隷であるというのが真実でしょう。別に誰にも隷属なんかしていないと、現代の私たちは思うでしょう。今日の箇所の中で「奴隷」という語は8回出て来ているように、人間はみな奴隷である、と言われています。しかし大事なことは、誰が主人であるかによって、天地の開きがあるということです。
聖書は、人間が創造主である神によって造られた存在であると語っています。人間が神の被造物であるということは、元々、人間が神に従属するものとして造られているということのなのです。しかし、人類の先祖アダムの時代から、神に從わない道を選びました。それは、自分が神のように主人となることでした。そしてそれが、「罪」の本質なのです。
神を主人とするのではなく、自分を主人とすることは、結局、自分の中にある罪、欲望に従うことにつながります。16節には、私たちが服従するものによって、支配されるという原理が明言されています。「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」。
神の武器として生きる
このようなことを踏まえて、パウロは「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と勧告しています。ここでわざわざ「手足」と言っています。これは、「肢体」のことです。私たちに与えられてている両手、両足をどう使いますか、とダイレクトに呼びかけているのです。しかも、この「義の器」「不義の器」と訳された語は、口語訳聖書が「武器」と訳しています。
単なる道具、器ではなく、もっと動きのあるダイナミックなものとして、私たちのからだが、武器として使われるのです。神の武器となるか、悪の武器となるか、ということです。2つの陣営があって、互いに戦闘状態にあります。あるいは、スポーツの中で、チームとチームとが勝敗を競う場合を想像していただくとよくわかります。私たちは、どちらかに属して、戦うのです。観客席には、すでに人生の戦いを終えた人たちがグラウンドを見つめて応援しています。生きている私たちはみな、選手として、味方の重要な武器として、戦いに貢献することになります。
おそらく、パウロが述べようとしていることは、どちらかに私たちは属していることになるが、どちらにしても、私という一人の人間の影響や力は、自分自身が考えている以上に非常に大きいということです。もし、罪や不法、不義のチームでプレイしているなら、それはたいへんなマイナスとなります。しかし、もし神にささげて義のしもべとして、神の武器となるならば、大きなプラスを神のためにもたらすものになれるのです。
勝敗の結果は、明白ですし、義のチームでプレイした人たちへの報酬も明らかです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(23節)。