「ぶどう園と農夫のたとえ」

マルコ福音書 12:1-12

礼拝メッセージ 2021.9.5 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


たとえの内容

 たとえ自体は、ぶどう園の所有者とそこで働く農夫たちとの対立です。ある人がぶどう園を作り、収穫のための準備を全て終えて、農作業や収穫を雇った農夫たちに任せて(貸して)旅立ちました。 収穫の時が来たので自分の僕(奴隷)を派遣して、収穫物を受け取らせようとします。ですが、この農夫たちはぶどう園の所有者に反抗します。派遣された奴隷を袋叩きにして、何も持たせないで追い返してしまいました。そこでぶどう園の所有者は別の奴隷を派遣しますが、同じようなことが起きます。物語はここで展開を見せます。ぶどう園の所有者は奴隷ではなく、愛する息子を使者(あるいは取り立て人)として派遣することを決断します。息子であれば、奴隷とは違って、酷い目には合わないだろうし、取り立ても旨くいくと信じていたようです。ところが農夫たちの反応はぶどう園の所有者とは全く違っていました。息子を殺害することで、ぶどう園の相続権を握って、ぶどう園を自分たちのものにする計画を立て、殺害を実行してしまう。イエスは譬えの聞き手に問いを発します。このぶどう園所有者はどうするでしょうか?農夫たちを滅ぼしてしまって、他の人々にぶどう園を任せることにするだろう。実際、わたしたちもそのように考えるであろう。
 10節と11節は詩篇118:22-23の引用です。建物の専門家が不必要と判断した石が、その建物の礎石となる、そのようなことが神によってなされます。それは人間には想像も及ばないことだ、と言います。


拒絶されたイエス

 大きな土地を所有しているぶどう園領主と、そこで働く農夫たちとの争いと言うことが背景になっています。しかしたとえそのものはそのような対立を描こうとしているのではない、そのように福音書は記しています。物語そのものは、何か理解し難いことが述べられているように思えます。どのような場合も、譬えには無理な状況設定がなされることが多いのですが、それは物語を極端にすることで本当に言いたいことを鮮明にするためです。ここで福音書が最も重要なこととして取り上げているのが、「拒絶」の問題です。ユダヤ教指導者がイエスを拒絶したこと、また後のキリスト教会を拒絶していくことが述べられ、同時にそれを神からの選びの証拠として示しています。そのことがたとえの最も言いたかった事柄です。
 この拒絶の譬えがエルサレムで語られたこと、イエスが処刑される直前に語られていること、それらは非常に意味深いことです。イエスの十字架刑は、ユダヤ教指導者のイエスに対する拒絶の結果そのものだからです。ですが、聖書が言おうとするのは、そのユダヤ教による拒絶は、神からの拒絶を意味するのではないと言うことです。イエスが生き、福音書が書かれた時代においては、キリスト教会よりもユダヤ教が人々から認められ、ユダヤ教指導者が神の真理に近いと自他共に認めていました。そのような状況の中で、ユダヤ教が拒絶したイエスを神から選ばれた者として語ること(宣教すること)は非常に困難がともないました。そこで本当に神の前で、拒絶をされるべきは誰なのか、あるいは神から受け入れられているのは誰なのか、この課題を教会は解決する必要があったのです。権威者が拒絶したイエスにこそ、神の選びが存在する、ここに人間には理解できない神の不思議さが顕われている、というのです。


イエスにまねるキリスト者

 私たちにとっては、この不思議さにはどのような意味があるのでしょう?よくイエスのようになりなさいとか、あるいはイエスのようになりたい、そんなことばが教会では聞かれます。それはそれでもちろん良いことですが、そこにある種の覚悟が求められていることも同時に語られなければなりません。イエスの生涯は最後には人間によっては拒絶されたのです。イエスは孤立しました。イエスの生き方をまねることは、もしかしたら私たちは孤立の道を行くことかもしれません。それはイエスを私たちの身勝手な生き方の口実にすることでなく、人々とは違った生き方をするという理由です。イエスは全ての人々が尊厳を持って生活できるように福音を語り実行しました。それは現代においても成り立ちますが、しかしそれを現実に推し進めようとするときに様々な障害が起きます。公害問題や医療過誤や、外国人・障害者への差別の問題はどうでしょうか?それに関わる人々が孤立している姿もあります。イエスの生き方は、人々から見れば愚かであろうし、そこに私たちが生ききれない何かが存在します。その覚悟を聖書は突きつけます。イエスにまねる生活は覚悟が必要です。しかし人が拒絶するそのような生き方を神は是と認めると約束します。ここに希望と、互いに励ましあって行く事の意味合いがあります。イエスに従うときに、厳しい覚悟と、それを越えて神の意思を実現させようとする互いの励ましあい(知恵の出し合い)、どちらも必要です。