ローマ人への手紙 9:30ー10:4
礼拝メッセージ 2017.11.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,彼らの間違いは、義を信仰ではなく、行いによって得られるものと考えてしまったことです―義と救いは、信じることにより得られます(9:30〜32)
イスラエルの救いのテーマを見てきていますが、これまで神の選びやご計画のほうに重点を置いて考えてきました。しかし、人間の側にも当然責任はあるのです。神の選びや、主権の角度から見ると、人間は全く何もすることができない、神のあやつり人形のように考えてしまうかもしれませんが、決してそんなことはありません。二律背反のように見えますが、神の主権性があっても、人間には自由意志と行動する自由が与えられ、なすべき務めと責任があることもまた、聖書が語る真理なのです。
ここに彼らイスラエルのどのようなところに課題があったのか、なぜ彼らは救いから遠いところにいたのか、そのことが語られます。読んでわかることは、イスラエルの間違った姿勢は、日本の中にも見られるものであり、おそらく他の国の人にも、共通する信仰の問題があることに気づきます。
第一に、彼らは、義を得るために、信仰ではなく、行いによると考えた点です。30節には「追い求める」という表現が2回出てきます。しかも、イスラエルと異邦人との対比として使われています。皮肉にも、義を追い求めているイスラエルは得られず、追い求めていなかった異邦人が義を得ました。もちろん、これには、神のあわれみ深いご計画というものがありました。
ここの「行い」というのは、単に行動する、善なる行いをするというよりも、律法の規定全般を守るということだと理解すべきでしょう。「信仰」対「行い」という対比的な見方で誤解しやすいのですが、聖書は、正しい行為を否定している訳ではありません。また、信じるということを頭の中だけでの知的承認のようなものとして勘違いしてはいけません。むしろ、行いのない信仰は、死んだものであると聖書は明言しています(参照;ヤコブ2:17)。ただ、イエス・キリストの真実、そのみわざに心を留めて、信頼することなしに、誰も義に至ることはできません。キリストご自身の神への忠実、真実を頼って、それを受け取りましょう。
2,彼らの間違いは、キリストをつまずきの石としてしまったことです―キリストを絶対的に確かな岩として信頼しましょう(9:33)
第二は、彼らは、キリストというつまずきの石につまずいてしまったことです。イザヤ書では「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(イザヤ28:16)と書いています。引用では「つまずきの石」「妨げの岩」となっています。この言葉は、同じイザヤ書の8章14節を混合しているようです。また、ペテロの手紙第一2章7節には「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石になった。」という詩篇118篇の言葉も加えられています。
イスラエルにとって、ずっと待望していたメシアが確かに来られているのに、救い主であると見分けられず、受け入れることができませんでした。来臨の預言を幾度も聞き、その言葉を握って待っていたのに、かえって逆らい、傷を負わせ、死に至らせてしまったのです。しかし、信じる者にとって、このつまずきの石は、「試みを経た石」です。「試みを経た石」とは、何度も試されて来たということであり、たとえどんなことが起こっても確かで間違いのない石であるということです。何があっても安心をもって信頼し続けられる方として、たとえられています。逆に、信じない者にとっては、捨てられた、何の価値も見いだせない存在です。ペテロの手紙第一によると、イスラエルは「家を建てる者たち」でした。神の家を建て上げるために選ばれ、その石を一番近くで見ていたのに、その真価を見出だせず、かえって無用な存在として、捨ててしまったのです。
しかし、彼(イエス)を信じる者は、失望させられないのです。この「失望させられない」という言葉は、恥をかかせる、という言葉の受動形に否定辞が付いています。辞書によると「信仰・希望・期待等が空しくなり挫折して人に恥をかかせる事」(岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』)とあります。したがって言い換えると、イエスに依り頼む者の信仰や希望は、決して空しくなったり、挫折させられるようなことはありません。なぜなら、この方こそ、試みを経た岩であり、何があってもびくともしない絶対的に信頼できる方であるのですから。
3,彼らの間違いは、神の義ではなく、自分の義を立てることを追い求めたことです―神の正しさ、素晴らしさが現れることを第一としましょう(10:1〜4)
第三に、彼らは、神の義ではなく、自らの義を立てることを追い求めてしまったのです。当時のイスラエルの人たちは、「義の律法を追い求め」(9:31)、「神に対して熱心」(10:2)でした。彼らほど、宗教的に熱心な人々はなかったでしょう。日本的に言うならば、彼らは本当に「まじめ」でした。正しく、熱心な人たちだったのです。しかし、いくら熱心にまじめに生きていたとしても、生きる方向性が間違っていたら、義も、いのちも得ることはできないのです。アウグスティヌスはこのことをたとえて、「全力を出して道をはずれるよりも、足を引きずりながらでも、正しい道を行く方がいい」と言っています。
彼らの熱心は、神にではなく、いつの間にか自分に向けられて行きました。自分の正しさということに熱中してしまい、どうしたら、自分が義である者になれるのかに心奪われてしまいました。これはキリスト者である人たちも気をつけなければなりません。信仰を何かの自己実現の道具のように考えたり、自分の理想や考えの枠組みで、神を押し込めて理解しようとする危険性があります。聖書の示す真理は、あくまで人間中心のものではなく、神が絶対的な中心であられることです。大切なことは、人間の義ではありません、神の義なのです。3章25〜26節を見てください。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。…それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」