「だれが一番えらいか」

マルコの福音書 9:33-37

礼拝メッセージ 2021.5.30 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.イエスの歩む道と弟子たちの視点の違い

 カペナウムに到着した一行は、家に入りました。これはペテロの家だったのではないかと解釈する人たちもいます。可能性は十分にありますが、はっきりとはわかりません。イエス様はここに来る途中、弟子たちの間で論じ合われていたことが気になったようです。当時は、自分たちのラビ(先生)に横並びで歩くことはあまりなかったようで、イエス様の後ろに、縦列になって議論していたのではないかと考えられています。ですから、その話題にイエス様は入っておられなかったものの、会話が聞こえてきていたのだと想像します。
 イエス様が弟子たちにお尋ねになると、皆が黙ってしまいました。彼らにとって、「だれが一番偉いか」というテーマは最大の関心ごとであったものの、それは、イエス様に聞かれるにはみっともない話題であるという自覚が少なからずあったようです。
 イエス様は腰を下ろし、弟子たち12人を呼び集めてお話しになりました。「腰を下ろす」という表現は、単にイエス様が座ったということ以上の意味が含まれています。ラビが弟子たちに何かを教える時には、座って話すのが習慣でした。ですから、イエス様は、これについては改まってきちんと話し、教えておく必要があるとお考えになり、彼らのラビとして腰を下ろされたのでした。

 イエス様が腰を下ろして弟子たちにお話しになったのは、「だれが一番偉いか」という彼らの議論があまりにもイエス様の歩まれる道と正反対のものだったからだと言えます。
 直前の箇所でイエス様は、ご自分が殺されて、よみがえることを弟子たちに語っておられました。イエス様が向かっておられたのは、人々に嘲られ、罵られながらも、そんな人々のために犠牲になるという十字架への険しい道だったからです。しかし弟子たちはイエス様が殺されることを恐れて、受け入れられず、イエス様が語られたことを理解することができませんでした。弟子たちの自己中心さが、彼ら自身を無理解にさせたのです。
 弟子たちの関心はいつも自分に向けられており、それは「だれが一番偉いか」と論じ合っていたことにも表れています。ですから、弟子たちにはご自分の道についてきてほしいと願っておられたイエス様にとって、これははっきりと教えておかなければならない重要なテーマでした。十字架の死へと向かっていかれるイエス様のお気持ちを考えると、いつまでも自分に関心を寄せている弟子たちの態度に心が痛む場面でもあります。


2.重要なのは、神さまとの関係

 イエス様は、「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい(35節)」と教えられました。たしかに、皆の後になって仕える者というのは、結果的に人々から尊敬されて、先頭に立つ者となっているように思います。人間の心の動きをよく捉えた考え方ではないでしょうか。しかし、イエス様がここでお語りになったのは、周囲の人々よりも偉くなり、一番になるためのノウハウではありません。私たちが考えるべきなのは、神様との関係です。神様との関係が、いかに人との関係に変化をもたらすのかということが、36節と37節のイエス様の言動から分かります。
 36節でイエス様が手を取られたのは1人の子どもでした。イエス様は「子ども」という言葉を用いてお語りになることが度々ありますが、ここでは「弱い者」の象徴として子どもを登場させています。現代でもそのようなところがあるかもしれませんが、当時子どもは人として未熟な存在であり、半人前であると見做されていました。ですから、ここで言う「子どもを受け入れる」というのは、「天使のようにかわいいので大切にする」とか、「子どもが好き」とか、そのような意味ではなく、「軽視されている弱い者を受け入れる」という意味で受け取るべきです。
 そして、イエス様が言われるには、子どもを受け入れるということは、イエスを受け入れるということであり、それはまた父なる神を受け入れるということであって、すべてに繋がりがあるのだと言います(37節)。このことを理解するには、自分と神様の関係をはっきりさせる必要があるでしょう。そもそも、使徒たちは「だれが一番偉いか」と議論していましたが、絶対的なお方はおひとりであり、それ以外の私たちは神に創られた被造物です。ですから、弟子たちの間で優劣をつけようとすること自体が的外れな考え方だと言えます。
 加えて、人は神様に創られた存在であるばかりではなく、神様に日々愛され、赦されて、イエス様というお方まで与えられています。このことを深く自覚しているならば、神様に属するすべての人々を尊ばずにはいられません。人と人との関係だけで相手を評価しようとするならば、どうしても許しがたいことや、見下してしまうこと、あるいは劣等感を抱いてしまうことがあるかもしれません。しかし、自分と神様の関係を考えるならば、その時はじめて、すべての人に対して「主の御名に免じてあなたをゆるしましょう」、「主の御名のゆえにあなたは素晴らしい」という言葉が生まれてくるのではないでしょうか。


3.感謝のゆえに謙遜となる

 私たちには人々の間で一番偉くないたいという願望があります。成長したいという気持ち自体は良いものですが、それが「他者と比べて一番になりたい」という意味なのであれば、神様と自分との関係性を見落としているかもしれません。神様と自分の関係を考えると、人々の間で偉くなることがあまり意味のないものであることに気づかされます。それだけではなく、自分が神様に何をしていただいているのかをわきまえているならば、感謝のゆえに謙遜にさせられて、他者へのかかわりも随分と寛容にさせられます。
 私たちには「だれが一番偉いか」という議論は不要です。しかし、もし神様があえて、私たちのうちで「だれが偉いか」ということをお決めになるとしたら、「皆の後になり、皆に仕える者」を先頭に立たせたいとお考えになることは言うまでもありません。私たちは、「偉くなるため」ではありませんが、神様にどのように感謝を表していくことができるのかということを考えていきたいと思います。そして、それは私たちの他者に対する態度に変化をもたらすでしょう。