「たとえを用いて語る」

マルコの福音書 4:33ー34

礼拝メッセージ 2020.11.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは人々の聞く力に応じて話された

主は語られるお方

 この箇所から、最初に覚えておきたいことは、イエスは人々に、そして私たち人間に語られたという点です。イエスはことばとわざによって当時の人々に語られました。そして今日も、イエスは私たちに語り続けておられます。聖書の神は啓示されるお方、ご自分のことを啓いて示される方です。私たちを造り、生かし、贖う方は、沈黙して何をお考えになっておられるのか、わからないような方ではないのです。ご自身の御心をことばで語ることによって明らかになさる、語る神なのです。
 そこで、私たちに必要なことは、4章のたとえの記事でイエスが繰り返し語られた「聞く耳のある者は聞きなさい」(9、23、24節)というメッセージです。主が語っておられることをしっかりと聞くことが求められているのです。信仰において、最も大切なことは聞くことで、聖書全体のメッセージがそれを明らかにしています。「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10:17)とあるとおりです。しかし、聞くことが大切であることがわかっていても、正しく聞くことは誰にとっても簡単なことではありません。他人のことばを聞くことも、神のことばを聞くことも忍耐が必要です。特に、みことばは自分の心の頑なさや罪ゆえに、聞いてそのまま受け入れることがなかなかできないのです。聞くための心構えや努力、へりくだりと忍耐が常に必要なのです。「お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)という少年サムエルが示した信仰の姿勢が不可欠です。詩篇40篇6節に「あなたは私の耳を開いてくださいました」という表現がありますが、「(耳を)開いて」は、ヘブライ語で「掘る」ということばです。神が私たちの耳を掘ってくださる。様々な堆積物で覆われて、聞くことができなくなっている耳の中を神の御声が自由に通れるように、穴を掘ってくださるというのです。

聞く力に応じて

 語る神は、一度にすべてのことを人々に語られるのではありません。「神は多くの部分に分け、多くの方法で語られる」(ヘブル1:1)のです。多くの部分に分けて、一つずつ私たちが理解できるように必要なことをお語りになっていかれます。33節で「彼らの聞く力に応じてみことばを話された」とありますが、直訳では「彼らがみことばを聞くことができるように話された」となりますが、邦訳が「聞く力に応じて」と表現しているように、私たちそれぞれには、みことばを聞く力、理解する力、受け止める力に違いがあるし、段階というものがあると思います。
 たとえば、ヘブル人への手紙はこう記しています。「このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています」(ヘブル5:11〜12)と書いています。実は、イエスも同じようなことを弟子たちに語られています。「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません」(ヨハネ16:12)。ヘブル書が語るように、私たちは「初歩の教えを後にして、成熟を目指して」進まなくてはなりません(ヘブル6:1)。そしてマルコの福音書4章で明らかにされていることは、聞く力に応じて、イエスは語ってくださるということです。


2,イエスは弟子たちにはすべてのことを解き明かされた

イエスの弟子として受ける恵み

 さて、34節に「ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた」と記されています。群衆と、弟子たちに対するイエスの働きかけの違いがここで明らかにされています。しかし、これはイエスが弟子たちだけをえこひいきしている、ということではありません。繰り返しになりますが、マルコは「イエスの周りにいる人たち」(3:32,34,4:10)と、「(イエスの)外にいる人たち」(3:31,32,4:11)の対比を記していました。イエスの周り、すなわち、主の近くにいた者と、遠い外側にいて、そこに決して入って来ようとしない人たちがいたのです。ですから、ここの箇所から読者に向かって暗示されている勧めは、主イエスのもとに来なさい、主に近づきなさい、ということなのです。外に佇んでいてはいけない、中に入って、イエスを囲む弟子となりなさい、とすべての人を招いているのです。
 34節の「彼らだけがいるときに」とあるのは、彼らがイエスのおられる場所に近づき、ともにいることによって、解き明かしを聞くことができたことを明らかにしています。マルコは、そのような彼らを「弟子」と呼んでいるのです。よく言われるようにギリシア語の「弟子」マセーテースという語は、学ぶ(マンサノー)ということばから来ています。弟子とは師の傍らにいて、教えを聞いて学ぶ人のことです。イザヤ書にこう記されています。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れたものをことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まし、私が弟子として聞くようにされる」(イザヤ50:4)。弟子には、聞く耳と語る舌の両方が必要であり、そのために主のそばにいなくてはならないのです。

イエスの友として受ける恵み

 イエスは弟子たちに対して、何でもお話しになってくださいます。ちょうどアブラハムにその御思いを明らかにされたように。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記18:17)とお考えになり、ソドムとゴモラに対するさばきをアブラハムだけに予め告げられました。イエスの弟子たちも訣別説教を聞いたとき、こう言いました。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえで語られません」(ヨハネ16:29)と。
 そのような弟子たちとの関係を、イエスは主人としもべという間柄とは考えず、彼らを「友」と呼んで、友情関係とされました。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15:15)。主の友として生き、聞くことに集中しましょう。