マルコの福音書 4:10-12
礼拝メッセージ 2020.10.18 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
譬えの意味
イエスは譬え(たとえ)を多く用いて話をしていたと考えられます。イエスの説教や言葉が多く残されていますが、すべてが譬えではないにしても、確かに多くの譬えやそれに類する言葉が記されています。譬えは、何か伝えたいことを説明するのに、それを分かりやすくするために語られます。語り手と聞き手との間には、共有した生活環境、習慣、様々な情報があります。聞き手がそれを分かっていれば、この譬えは良く伝わることになるでしょう。しかし、譬えは万能ではありません。もし語り手と聞き手との間で生活習慣などが共有されていなければ、逆にその譬えは何を言っているのか分からなくなってしまいます。聖書を読むときに、イエスの譬えが理解しがたく感じるのは、現代の読者(私たち)がイエスの時代のことをよく分かっていないことがその一因です。2000年前に東地中海の世界は、現代に生きる者にとっては時間的にも空間的にも、また文化や社会においても、遠すぎます。また、譬えは直接に語りたいことを語っているわけではありませんので、一つの譬えに対してさまざまな解釈が生まれてしまうことがあります。イエスの譬えの大部分は解説がありません。そのためにさまざまな解釈が生まれます。実際、21節以下には多くの譬えが記されていますが、注解書などを見るといろいろな解釈があることが分かります。
神の支配の秘密
本来は分かりやすくするための譬えが、最も理解が難しいものになってしまうことがあります。それはイエスの弟子たちも感じていたようです。イエスは群衆に「種を蒔く人」の譬えを語りましたが、群衆が去ったのちに、イエスの周辺にいた弟子たちが個人的にその譬えの意味を聞こうとします。十二弟子をはじめとするイエスに近い弟子たちのある種の特権であるとも言えましょう。それに対してイエスは、弟子たちには神の支配の秘密が語られる一方で、その他の人々には語られないと答えます。不思議な答えです。神の支配の言葉(福音)はすべての人々に伝えられるべきはずであるのに、その秘密は弟子たちだけに語られると言われています。奥義・秘密と翻訳されているギリシア語には「ムステーリオン」が用いられていて、隠れていたものが顕わになると言った意味で使われるようです。神の支配(国)は、マルコの福音書ではイエスが最初に宣教の言葉として語った表現であり、そこでは神の支配の到来が約束されています。神の支配という表現もさまざまに解釈されますし、いろいろな使い方もされています。大枠で言えば、神の価値観が実現している状況を意味していると言えるでしょう。神の価値観は、この世界の価値観とは違います。神の支配は、この世界の価値観を転倒させます。社会から価値がないものとみなされて見捨てられた人々が祝福を受けます。富者や権力者が引きずりおろされます。軍事力ではない、非暴力の平和がこの世界を治めます。この世界にどっぷり浸かり、その論理を常識として生きている私たちには想像もできないことが神の支配であり、それゆえに解説が求められるのです。
神の支配に生きる
しかし、神の支配のビジョンはまったく隠されているわけではありません。旧約聖書を見れば、律法に預言書に神の支配のビジョンは述べられています。神を愛し、他者を大切にし、人々が助け合って生きるビジョンは明確です。イエスが譬えを語る目的として、イザヤ書6章を引用しています。「見ても聞いても分からず、立ち返ることを経験しない」ためであると言われています。この言葉も不思議です。神の支配の言葉は、人々をメタノイア(悔い改め、回心、変革)に導くためです。イエスが問題にしているのは、結局は「生き方」です。神の支配のビジョンを知ることは大切ですが、しかし、そのビジョンに生きているかどうかをイエスは問うのです。実際、神の支配の秘密の解説を聞かされた十二弟子たちは、イエスのことを最後まで分かりませんでした。神の支配に生きることよりも、自分たちの目標に生きようとしたのです。それではいくら秘密を説かれようが、「見えない、聞こえない」のです。イエスに近くいても、弟子たちは神の支配の外にいました。この世界の論理で生きていたのです。逆に、神の支配の秘密について直接的に解説を受けていない者たちが神の支配の中にいることがありました。マルコ福音書を見ていけば、側近の弟子ではないけれども、イエスによって救われ、イエスの生き方に共鳴した人々の姿が描かれています。譬え自体の意味が分からなくても、神の支配に生きようとした人たちがいたのです。
神の支配の秘密を語られ、それを理解した弟子たちと言っても、神の支配に生きているとは限りません。神の支配の秘密を知ることが目的ではないのです。神の支配に生きることを求め、神の価値観の実現に生きていきたいと思います。