「たとえそうでなくても」

ダニエル書 3:1-18

礼拝メッセージ 2019.1.20 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


王の命令と迫害

 本日の聖書箇所にはダニエルは登場しません。地方総督として派遣されたダニエルの3名の友人たちがその主人公です。
バビロン王であるネブカドネザルは、自らをイメージした金の像を建て、その像に対する礼拝を人々に求めました。その像を拝まないことは、王に対する反逆を意味しました。実際、王への礼拝を拒絶する者は、火の炉に投げ込まれて焼死させられることになったのです。これは偶像礼拝という宗教的な事柄以上に、政治的な試みでした。
 ここでカルデヤ人たちがユダヤ人を中傷し、王に訴え出ます。それは、地方行政官として登用されているユダヤ人3名が金の像を礼拝していないという内容でした。彼らは、ダニエルと同じようにユダヤ人として自らの神に仕える者です。
 王は命令が無視されたことの政治的な意味をよく知っていましたので、3名のユダヤ人たちに対して金の像(つまりネブカドネザル自身)への礼拝を行うように迫ります。そして、もし礼拝を拒否するならば、火の炉に投げ込むと脅しをかけます。力を持つ者がその権力を利用して脅しをかけ、人々を自分が思うままに動かそうとすることはよくあることです。
 しかし、3名のユダヤ人たちは金の像への礼拝を拒絶します。ここで、まず神(ヤハウェ)への信頼を証言します。ユダヤの神はその意志に従って、火がつけた炉に彼らが投げ込まれても、そこから救い出すことのできる神です。つまり、帝国であるバビロンの強力な権力を背負ったネブカドネザルの命令など神の前では意味のないものであると言っています。王やカルデヤ人から見れば、強がりの言葉であり、生意気で王を馬鹿にする言葉です。しかし、たとえ神が彼らを炉のから救い出さなくとも、金の像を礼拝しないと、彼らは明言します。これも挑戦的な言葉であり、ある面、ユダヤの神が救い出すという前半の言葉よりも厳しい言葉です。
 彼らは炉に入れられる刑に処せられますが、神は彼らを救い出します。そして、逆に王はユダヤの神を認めることになります。


「たとえそうでなくても」

 3名のユダヤ人たちは宗教的・政治的なハラスメント(迫害)に遭遇しました。それは、力ある者の自己顕示の犠牲です。その犠牲から自らを救い出すのは、ここでは神への信頼であると聖書は語ります。このようなハラスメントへの抵抗の手段は、神への信頼しかないと言っているのです。
 「たとえそうでなくとも」この言葉は重いものです。自らの危機に際しての神の力による救済は、神を信頼して生きる者にとっては当然の願いであるように思えます。誰もそれを禁じることないでしょう。むしろ、救いを願うように祈れと忠告するかも知れません。実際、3名のユダヤ人たちは、神の力の期待を言葉にしています。しかし、その神への信頼は、神を自らの願いを聞かせるロボットにするような信頼ではありません。自分の思った通りに、あるいは計画通りに事を運ぶことを、自らの神に押し付ける信頼ではないのです。
 聖書の神への信頼は、神に従うことを意味しています。真の信頼がなければ、その神の言うことなど真に受けることなどできません。あるいは神に従うという決意がなければ、神への信頼が成り立たないのです。もし神が私たちの言うことを聞くロボットであるならば、それは私たちの考えが第一になることであり、私たちが神の座に就くことです。神のようになった人間、それは他者を生かす人間になるのではなく、自己中心の人間になることを意味しています(創世記3章)。神からの信頼を裏切り、人間同士の信頼関係をも壊す結果を招きます。ネブカドネザルの思いはそこに表れています。自ら神の地位を得て、他者を支配しようとします。自分の思い通りにならなくとも、神に信頼し続けること、それは私たちが自らを神としない生き方を選ぶことです。神からの信頼に応え、他者を大切にすることに繋がっていきます。自らを神とする誘惑、そこから起こるハラスメントへの抵抗は、神への信頼しかないのです。