「ただ神の栄光を現すために」

コリント人への手紙 第一 10:23ー11:1

礼拝メッセージ 2016.8.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


 8章から始まった「偶像にささげた肉」を食べるか、食べぬべきかという問題について、本日の聖書箇所で最終的なまとめが述べられます。この聖書箇所で論じられてきたことは、偶像崇拝について、知識と愛について等、奥深い信仰の内容が語られてきましたが、パウロがコリントの教会の人たちに伝えたかった「生き方」の問題としての、人間の自由、クリスチャンの自由という大きなテーマが、ここで再度繰り返されます。23節で「すべてのことは、しても良いのです。」(10:23)と言われます。これは6:12にも出て来ました。「しても良い」とは「許されている」「合法的である」という意味です。確かに、人間には多くの自由や権利が与えられています。何を食べようと、何を語ろうと、どんな行動をとろうと、法律的に問題がなければ、罰せられることはありません。
 けれども、聖書が語る主にある自由は、何でも自分の願うことが行えるという意味の、自分中心の自由ではありません。それは他者に益する自由、神の栄光を現す自由という素晴らしいものです。矛盾に感じるかもしれませんが、何でもやりたいことをしても良いというのは、実際は、人間に真の自由や解放を与えることになりません。ここでコリント書に記されている自由の使い方について、確認しておきましょう。


1,その自由を使うことが、かえってあなたを奴隷状態にしてしまうものでないかを確認しよう(6:12)

 6章のところですでに見たことですが、それがたとえ法律的、社会的に問題のないことであったとしても、それを行うことでかえって、自由をあなたから奪うものがあることも知っておきましょう。中毒にしたり、依存性を持っているようなもの、いつの間にか、それから離れられないようにしてしまうもの、また、神様や人々に仕えるのに妨げるようなものは、あなたを自由にするどころか、むしろ不自由にし、束縛し、奴隷にされてしまう危険があることを知っておくべきです。そしてそれは、あなたを罪の中に陥れることになるでしょう。


2,その自由を使うことが、信仰のつまずきを他の人々に与えるものでないかを確認しよう(10:32)

 10:23〜30で論じられていることが、その自由の行使が、他の人々にどう影響を与えるかという問題です。不思議なことに、25〜27節では「食べなさい」と食べることを勧めているのに、28節では「食べてはいけません」と反対のことが命じられています。その鍵となる言葉は「良心」ですが、自分の良心としては、どんな肉でも、神に造られたものであるから、食べても良いと言われています。しかし、その場所に「偶像にささげた肉です」と言う人が誰かいたら、その人と良心とのために食べてはいけないと言うのです。結局これは、私たちの行使する自由が自分一人のことで終わらず、他の人たちに影響を与えることを考えるように教えているのです。
 32節には「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。」と言われています。それは、クリスチャンにも、ノンクリスチャンにも、信仰のつまずきになってはいけないと言うのです。私たちはだれも自分自身のためだけに生きているのではないからです。他の人たちのためにも生きているのです。その消極的前提が、このつまずきの問題です。そして、積極的前提となるのが、次の「徳を高める」ことです。


3,その自由を使うことが、自分と他の人々を建て上げるものであるのかを確認しよう(10:23,24)

 23節「徳を高める」とは、直接的に表現すると(家を)「建て上げる」という意味で、コリント書でよく出て来る言葉です(参照 8:1,14:3−5,26等)。「形成する」「造り上げる」の訳もあります。個人的視野に立てば、これは、人間形成や信仰の成長と言い換えることができ、教会的視野に立てば、信仰共同体の形成、教会全体の成熟と発展、と表現できます。
 すべての人が教師の賜物を持ってはいないのですが(参照 12:29)、この大切な原則を思いめぐらすと、教会にいる私たち一人一人に求められるのは、教育的視点だと思うのです。人間一人が成長していくというのは、簡単なことではありませんし、長い歳月をかけてなされるものです。もちろん、教会というグループにも同じことが言えます。教育的視点の大きなことの一つは、長い目で見る、ということです。短期的に見れば、マイナスとして目に映ることであっても、長期的に見ればプラスになることも
あります。また、その反対のこともあります。「すべてのことは、しても良いのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」の言葉に込められているメッセージは、その自由を使うことで、人あるいは教会を建て上げていくものなのか、長期的または未来的(終末的)な目で見た時、真に意味あることなのか、建設的であるのかを、よく吟味しなさいということです。


4,その自由を使うことが、人々の救いのために用いられるものであるのかを確認しよう(10:23,24)

 「人々が救われるため」という目的は、私たちの自由の方向を一つに結束させるものです。「何とかして、幾人かでも救うため」(9:22)と以前に書かれた言葉と同じように、宣教の情熱に燃えるパウロの生き方が、よく見える言葉です。
 これら四つの自由を活用する指針をまとめる言葉が、二つあります。一つは「神の栄光のため」(10:31)です。神がほめ讃えられ、その栄光が輝くために、私たちはすべてのことを行っていくのです。二つ目が、11:1の「キリストを見ならう」ことです。この「見ならう」は「模倣すること」「真似をすること」です。トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」という本がありますが、その原題はイミタチオ・クリスティで、英語ではThe Imitation of Christです。イミテーションとは偽物のことですが、本物と見間違うほど精巧に作られた偽造品があります。それほど、本物のキリストに自分を近づけていく。キリストの歩みに自分を合わせていくことがクリスチャン、キリスト者である人の生き方の本質であり、与えられた人生の自由の用い方なのです。