「すべての人を憐れむ神のご計画」

ローマ人への手紙 11:25ー36

礼拝メッセージ 2018.1.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神のあわれみによるご計画を知ることは、人を謙遜にし、感謝と喜びに導きます(25〜32節)

神のご計画という奥義

 人生がうまく行っていないように感じる時、いろいろな苦難を経験している時、次のようなつぶやきや疑問を持つことはないでしょうか。神様は、いったい何をお考えになっているのだろうか。どうしてこうもうまくいかないことが多いのか。神様はどんな計画を持っておられるのだろうか。でも、その問いに対する答えは見つかりませんし、納得できる答えを与えてくれる人もなかなかいません。あるいは、神の存在について、そもそも信じていない場合は、そういう疑問を抱いて落胆している信仰者を見て、だから神なんて信じることは無意味なんだ、と結論づける根拠となってしまうかもしれません。
 9〜11章で、この手紙で執拗なまでに論じられてきた、イスラエルの救いのテーマは、神のご計画の全体や枠組みを語っている点で、上記のような疑問にヒントを与えてくれるところではないだろうかと思います。それは、イスラエルのことを論じつつも、神のご計画の全体を語っているからです。それは、個人の人生という視点から、世界全体という広大な視点までを包含している話であると思うのです。パウロは、ここまでのところで、当然出て来るような疑問に対しても、旧約聖書を引用しながら説明してきました。選ばれた民であるイスラエルがなぜ神に背を向けているのか、選んだのに神は見捨ててしまうのか、ならば神は正しくないのか、神でも計画の失敗はあるのか、と神に対して不遜な言葉だと叱られそうな疑問さえも、あえて書いて論じて来たのです。25節「ぜひこの奥義を知っていただきたい」と書いていますが、字義通りに言えば、「知らないでいてもらいたくない」という言葉です。これは、パウロが大切なことを語る時によく使った表現です(1:13,Ⅰコリント10:1,Ⅰテサロニケ4:13等)。なぜ知らないでいてもらいたくないかと言えば、人はだれでも大切な真理を知らないことによって「自分で自分を賢い」と思って、自分自身を欺いてしまうからです。

すべての人を救うために

 イスラエルの不従順が、かえって神から遠い存在である異邦人の救いの道を開くことになり、彼らの不従順は異邦人の救いが満ちる時までであると言うのです。25節の「異邦人の完成のなる時まで」は、直訳すると「異邦人の充満が来るまで」ですが、ケーゼマンは「満ち溢れる異邦人が神の国にはいって来る時まで」と訳しています(E.ケーゼマン著 岩本修一訳『ローマ人への手紙』日本基督教団出版局)。満ち溢れる異邦人が神の国に入って来る、という言葉は預言的な幻でしょうか。統計では世界人口の約1/3(33%)がキリスト教徒であると言われています。世界の教会は、実に、異邦人で溢れかえっている状況です(ルカ16:16)。日本に住む異邦人である人々も、いつの日か神の国に群がるような時が来るのか、待ち望みたいと思います。
 神のご計画の最終目的が32節に明らかに語られています。「神はすべての人をあわれもうとして」とあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と書いている箇所もありますように、イスラエルの不従順は、異邦人があわれみを受けるため、そしてやがては、イスラエルがみな救われ、イスラエルにも神のあわれみが与えられることが明らかにされます。このように語って来て、異邦人である人たちに、もちろん、イスラエルの人たちにも言えることですが、私たちは、誰であっても、神の前に自分を誇ったり、イスラエルの人々を見下すことはできないということです。むしろ、すべては神のあわれみであり、恵みなのです。あわれみを受けた者として、へりくだって神に感謝すべきなのです。


2,神の知恵の底知れぬ深さを知ることは、人を神への賛美と礼拝に導きます(33〜36節)

神の富、知恵、知識の深さ

 33〜36節の表現を読んでいて、すぐに思い出したのはヨブ記です。ヨブ記の終わり部分で、彼は次のように告白します。「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。…私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ42:2,5〜6)。ヨブは裕福で、家族にも恵まれ、幸せでした。また、同時に彼は神を信じる敬虔で正しい人でした。ところが、次々と恐ろしい苦難が彼と家族の上に襲いかかります。子どもたちは天災や事故で死んでしまい、財産も失い、さらにひどい病気にかかります。すべてを失った彼を慰めに来た友人たちとの対話が物語の中心です。しかし最後には、神が創造主であることを示され彼に語りかけます。実に不思議な話で、正しい人の苦しみがその主題となっています。しかしヨブ記は人間の苦しみの意味をはっきりとは明らかにしていないように見えます。苦しみと絶望の中でヨブは、友人たちと、このような苦しみの理由や原因について、さらには、神の御心やご計画がどこにあるのかを問い続けます。そして最後には、「私は知りました」「あなたを見ました」とヨブは神に語るのです。ヨブの言葉は、人間の言葉で説明はできないけれど確かに分かった、肉眼では見えないがお方の存在が分かり、今、見えるということでしょう。これが信仰の経験です。

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る

 神は、すべてのものを造り、存在させ、命を与えて生かし、ご計画をもって、すべてを支配しておられます。けれども、人間は、神の豊かさである富、その知恵の深さ、知識の大きさを計り知ることはできません。もし、人間が神の知恵を理解し尽くしたならば、神は人間の主ではなく、人間の奴隷や召使いのようになってしまいます。33節にあるように、それは「知り尽くしがたい」「測り知りがたい」と否定形でしか表現できないものです。神の叡智の偉大さは34〜35節「だれが…ですか」との疑問形で、「だれも…いない」あるいは「だれも…できない」という答えを引き出すかたちで表されています。36節の最後の言葉は、まさに「頌栄」です。神の栄光を崇める賛美です。なぜ神に栄光を帰すのか、それは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」。神がすべての出発点であり、神がすべてのことを導かれ、最終的には神に向かって進んで行く、これが聖書の描く歴史観であり、信仰による世界観なのです。