「すべての人にわたしの霊を注ぐ」

使徒の働き 2:14ー36

礼拝メッセージ 2020.5.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,新しい時代がすでに始まっている

 聖書が語る歴史では、2000年前にわれわれ人類に対して、新しい時代が到来したことを告げていました。そのことばがペンテコステ(聖霊降臨祭)の出来事においてのペテロの説教です。これまでとは明らかに違う歴史が始まっているとペテロはエルサレムに集まっているユダヤ人、異邦人たちに語りました。
 14節を見ると「ペテロは十一人とともに立って」と書いています。合わせて十二人がその場に立って語ったのです。わざわざ人数を書いているのには意味があります。ペンテコステの起こる前、イエスは復活されて、四十日間にわたって弟子たちに現れ、神の国について教えられました。その上でイスカリオテのユダの脱落によって生じた十二使徒の補いのために、マッティアが選ばれました。それが1章の話です。使徒は十二人どうしても必要でした。新しい神の民の形成のために、かつてのイスラエル十二部族に相当するものとして立てられるためです。したがって、全イスラエルの代表として、ペテロは十一人とともに立って、この新しい時代に突入した大事な意味について、ヨエルの預言から、ダビデの詩篇から、聖霊について、イエスの地上宣教と十字架、復活、高挙(昇天)を説明します。
 14節の呼びかけは「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん」と始まり、次に22節で「イスラエルの皆さん」となり、最後に29節で「兄弟たち」となっています。その呼びかけは段々と自分たちのほうへ会衆を近づけて語られています。もちろん語り手の立場としては、全イスラエルの代表として、神の民の代表団としてであって、神より立てられた権威に基づいての宣言でした。


2,すべての人に御霊が注がれる時代

終わりの時代を予示する危機

 17〜21節は、このペテロの説教が語られる遥か以前、数百年前に書かれた預言者ヨエルのことばを引用しています。「主の日」が来るという終わりの日の審判を語ったヨエルの預言は、バッタやイナゴの被害を語ったことで知られています。旧約時代パレスチナ地域には10〜15年周期で移動して襲って来るバッタやイナゴの被害があったようです。大群で襲来するイナゴがどれほど恐ろしいかを、ヨエル書の聞き手である人々はよく知っていたことでしょう。聖書辞典によれば、これらの群れは、しばしば太陽を覆い隠してしまうほど空いっぱいになる大群で、農作物等、ありとあらゆるものを食べ尽くして、甚大な被害をもたらしたということです。ヨエルはこうした危機的状況を経験している人々に、「主の日」の到来を預言し、民に悔い改めを迫りました。ペテロは、この預言こそは、今、聖霊が地響きを鳴らして、この場にいる人々に注がれたことによって、明らかに起こったと告げました。

反バベルとしてのペンテコステ

 ペンテコステの出来事のその大きさは、「すべての人」(直訳「すべての肉」)ということばで示されています。多くの異なったことば、多言語で語るという奇跡が起こりました。それは国や民族の間にある壁を超えるということでした。「息子」「娘」「青年」「老人」「しもべ」「はしため」とあるように、年齢、性別、立場など、あらゆる人間的な違いを乗り越え、すべて克服してしまうという驚くべきものでした。ペンテコステの出来事としばしば対比されるように、創世記11章にある「バベルの塔」の話では、皆が一つのことばで、自分たちの名を上げることを目的として、天の頂きに届くような巨大な塔を建設しようとしましたが、結果は混乱と互いのコミュニケーションの断絶でした。まさに、ペンテコステは、その真逆です。多くの異なったことばを人々が持って、それでいてバラバラになったり、混乱して散り散りになるのではなく、神のみわざという一つの同じ内容、新しいことば(マルコ16:17)を語って、互いに豊かなコミュニケーションを経験できるのです。15節にあるように、彼らは周りから見れば、酒に酔ったように見えたのかも知れません。それは、恍惚状態に陥ったということで言い表してしまうことではなくて、そこに何よりも非常に大きな喜びがあり、口を閉じておくことができないほどの笑いがあり、嬉しさと楽しさが満ち溢れていたことを物語っているのでしょう。国やことばに違いがあるという意味においては、人間的には互いの間にたいへん大きな距離が存在しているのかも知れません。ところが、聖霊が降られたことで一つとなることができ、互いのことを大切に思えるような新たなコミュニケーションが生まれました。神の御霊が、私にも、あなたにも、彼らにも、注がれており、互いに神の愛を受け取っているという関係性が生まれました。


3,すべての人が預言する時代

 さて、御霊の注ぎにより生じていくことは、皆が預言する者になるということです。17節と18節には「彼らは預言する」と書いています。神の御霊が注がれるということは、神が天におられると同時に、神が私たちの内におられるということです。神が、内なる神となられました。目には見えませんが、神はこの地上にいてくださるということ、それも私たちの傍らにいて、私たちを教え、導いてくださるのです。聖霊が私たちの内におられるゆえに、人は神のことばを聞くことができますし、神のことばを語ることもできるのです。神のことばを自由に大胆に語るということが起こります。これは神の国の宣教がどんなことにも限定されず、どんな障壁をも遥かに超えて、広がっていくことの預言でした。神のことばは繋がれてはいないのです。御霊は御思いのままに自由に風のように吹いて、働いていかれます(ヨハネ3:8、Ⅱコリント3:17)。
 ペンテコステの出来事が明らかにしていますように、神の国の宣教は、いかに厳しい状況でも、難しい局面でも、あらゆる障壁を乗り越えて、前進していきます。ペンテコステの聖霊は、今も私たちの上に注がれています。そして私たちを喜びと力で満たし、平安を与え、預言させて、多くの異なった人々の口から、同じ告白を引き出されます。イエスこそが主であるという信仰の告白へと導いていかれるのです。