「すばらしい喜びの知らせ⑤」

ルカの福音書 2:8ー20

礼拝メッセージ 2016.12.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「飼葉おけに寝ておられるみどりご」は、あなたのために来られた救い主です

「あなたがたのために」

 全体タイトルとして「すばらしい喜びの知らせ」(参照;2:10)と掲げてきましたが、ここまでルカの福音書を読んで来て、神に私が尋ね、同時に神からも問いかけられて来たことは、なぜ、クリスマスが、キリストの到来が、この私にとって、世界にとって「すばらしい喜びの知らせ」と言えるのか、ということでした。しかし本日の聖書箇所は、そのことについての答えを導いてくれる内容だと感じました。
 喜びの知らせと言っても、自分と何も関わりのないことであれば、それはその人にとって、喜びの知らせとはなり得ません。でも、聖書が語っていることは、御使いが突然現れ、夜番をする貧しき羊飼いたちに告げたメッセージは「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」(2:11)ということでした。「あなたがたのために」です! 英語で言えば、「for you」(フォー・ユー)です。それもみんなまとめて、という感じではなくて、ひとりひとりに人格的に関係するあり方で、という意味です。ですから、「あなたがたのために」のところに自分の名前を入れて読んでも良い箇所です。

わたしたちの味方である方

 「あなたがたのため」の「救い主」ということは、いつも変わらず、ずっとあなたの味方でいてくれる人、という意味です。神学者カール・バルトは、この救い主を「わたしたちの味方であるまさにその人」と表現しました。今から約60年前のスイスのバーゼルの刑務所で、ルカの福音書2章7節からこのタイトルで説教したのです(「バルト・セレクション1 聖書と説教」天野有訳)。当時の刑務所にいた人たちがどんな思いで、その話を聞いていたのかわかりませんが、きっとこの世で最も味方の少ない立場に置かれている人たちだと思います。私たちはどうでしょうか。確かな味方を持っているでしょうか。いつも変わらず、裏切らず、常に自分の味方になって支えてくれる人がいるでしょうか。親や伴侶、恋人、友人など、さまざまな人たちが味方になってくれるでしょう。
 でも、不安もあるでしょう。もしかすると、これから先、何かのことで、見限られることが起こるかもしれませんし、こちらが相手の信頼を裏切ってしまうことをしてしまったら、いったいどうなるでしょうか。自分がどんな立場や状況になろうとも、どんな失敗や罪を犯したとしても、あるいは自分と関わることで損をすることがあると分かっていても、決して見捨てず、知らないふりをせず、忘れず、守り、助けを与え、慰め、力づけ、愛してくれて、そのようにして、ずっとあなたの味方でいてくれる人は、はたしているのでしょうか。聖書は、「いる」と証しをしています。それが「あなたがたのために」生まれた方という言葉の意味であり、救い主、主キリスト、その方です。


2,「飼葉おけに寝ておられるみどりご」は、「いる場所がない」人々のために来られた救い主です

疎外された人たちのために

 確かに、主キリストは、私の、あなたの、味方となってくれるすばらしいお方です。おそらくこのメッセージを容易に信じられない羊飼いたちに対して、神は御使いを通して「しるし」を告げられました。それは、とても不思議なことに「飼葉おけに寝ておられる」という「しるし」(2:12)でした。「飼葉おけに寝ておられる」(2:12)ことで、羊飼いたちの置かれている弱く苦しい状況や立場を、よく分かってくださる方であることを示していました。羊飼いたちは、住民登録の勅令の最中、自分たちには関係のないことのように、ありふれた毎日の一日として、いつものように多くの羊の世話をし、夜の見張りをしていました。彼らは、その社会から、住民として、あるいは一人の人間として認められ、カウントされていないかのようです。
 この羊飼いたちは、もしかするとこの世界から疎外された人たちの有様を代表しているかもしれません。彼らもこの世の中に「いる場所」を持たない人たちではないでしょうか。そしてまさに「いる場所がなかった」(2:7)者として「飼葉おけに」(2:12)寝かされるかたちで、救い主は「きょう」という日に生まれくださいました。「飼葉おけに」寝かされていることが表すメッセージは、疎んじられたり、辱められたり、虐げられている人たちのために、主キリストが来られたことを意味しています。キリストは公生涯で、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(9:58)と言われました。

現実のただ中に

 また、主が「飼葉おけに寝ておられる」方として来られたことは、私たち人間の現実の生活をよく知る方として来られたということです。表面的には自分以外に誰も知らないような、私たちのナマの現実、隠れている生活部分、そこにはどうしようもないような苦しさがあったり、もしかするとドロドロとした人間や社会の裏側を直視させられたり、自らも汚れをかぶりながら取り組まねばならないことがあるかもしれません。でも「飼葉おけに寝ておられる」方は、そういう暗くて重い現実、痛みや罪、悲惨に見えるような世界のただ中に、自ら足を踏み入れ、訪れてくださることを示しています。あるいは、むしろそういう所でこそ、主はあなたと出会ってくださるということを示しているのです。

「地の上に、平和」をもたらす救い主

 「飼葉おけに寝ておられる」方が、この世界にもたらしてくれる真の平和こそが、福音なのです。それは、御使いと天の軍勢による賛美で歌われた賛美に明示されています。「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(2:14)。「神に栄光、地に平和」とは、天と地がそれぞれバラバラにあるのではなく、接点を持つようにして繋がっている姿を教えています。天には輝く神の栄光が存在します。それと同時に、天の神のご支配と御心が地にもなされて、真の平和による喜びと祝福がある、そういうかたちに、主はこの世界を造り変えていかれるという宣言です。「飼葉おけに寝ておられる」方は、大きな御力をもって、この賛美をかたちにしていかれます。その働きのために、「御心にかなう人々」を今も召し出します。