「すばらしい喜びの知らせ④」

ルカの福音書 1:57ー80

礼拝メッセージ 2016.12.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「主の御手」を感じる ー ヨハネ命名の出来事(57-66節)

バプテスマのヨハネの誕生と命名

 バプテスマのヨハネについて今回の箇所も多くを語っていますが、福音書の中で、救い主イエスを除いて、一人の人物の誕生にこれほど紙面が割かれている人は、ほかにおりません。それだけ語る必要のある重要人物であることを聖書が示しているのです。しかも、63節「書き板」(ギリシア語;ピナキディオン)は、ヨハネが斬首されて首が乗せられる「盆」(マタイ14:11 ギリシア語;ピナクス)と同類語であり、誕生でその名前が書かれたその人が、やがて殉教することも暗示していると言われます。まさに誕生も死も語られた人でした。彼は、荒野で叫ぶ者の声であると、自分の使命を明らかにしていました。この使命は、今まで見てきたように、主を信じる人たちすべての使命でもあります。現代という精神的に荒涼とした砂漠のような時代の中で、私たちは主の言葉を叫ぶ声です。では、ヨハネの誕生の出来事とその父ザカリヤの預言を見ていきましょう。

人々の反応(喜んだ、驚いた、恐れた)

 この57〜66節のバプテスマのヨハネの誕生と命名の出来事では、「近所の人々や親族」といった人たちが、ザカリヤとエリサベツの周りにいたことを示します。しかも、この人たちの出来事に対する反応が多く述べられているところがユニークです。彼らのリアクションの動詞を並べると、「聞いて、…喜んだ」「驚いた」「恐れた」(直訳「恐れが起こった」)です。人々は、最初「聞いて喜びました」。高齢のエリサベツが妊娠し、出産したからです。私たちも神の起こされた出来事や言葉を見たり、聞いたりしての最初の反応は、多くの場合「聞いて喜ぶ」ことです。次に、命名する割礼の場面では、エリサベツが、元々一族にない名前の「ヨハネ」という名前を出して、なぜその名前なのかと訝り、夫のザカリヤに聞くと「書き板」に、「ヨハネ」と記しました。これには人々もたいへん「驚きました」。次の段階は、「驚き」です。何か普通ではないことを見聞すると、私たちも驚きます。そして、最後に「ヨハネ」と命名したザカリヤが、これまで全く話ができない状態から、「たちどころに…ものが言えるようになった」のです。神からの言葉を信じなかったという理由で、語る力を一時的に神から取り上げられたザカリヤでしたが、口が開け、舌のもつれが解けたとき、彼が最初にしたことは、神への恨み事を述べるのではなく、それとはまったく逆の、神への賛美でした。このようなザカリヤの姿を見て、また一連の出来事を通して、人々は「恐れた」と書いてあります。

見えざる「主の御手」があった

 なぜ恐れたのでしょうか。それは、人々がそこに何かを感じたからです。神が確かに働いておられるということ、見えない神の御手が感じられたからでしょう。本当の信仰は、喜びだけではなく、人々の心に、ある種の恐れを生じさせるものなのです。そういう主の御手を感じた後では、58節の「聞いた」時とは違う仕方で、神の言葉を「聞く」ことになっていきます。66節で「主の御手が彼とともにあったからである」とは、このヨハネ命名の出来事の結論です。主が来られるという出来事の予感、前ぶれとして、私たちの間で、今、神が働いておられることを、信仰の目をもって悟るところから、その心の備えが始まるのです。


2,「敵の手」から救われる ー ザカリヤの預言(67-80節)

主は訪れる

 ザカリヤの預言も、賛美の歌です。ザカリヤの賛歌は、ベネディクトゥスと呼びます。やはりラテン語訳聖書ウルガタで、68節の出だしの「ほめたたえよ」(Benedictus)から来ています。これは祝福する、賛美するという意味の言葉です。イスラエルの神である主が賛美されるべき理由が、やはりこの賛歌の中で述べられています。それは主が私たちのところに訪れてくださったからです。78節で「日の出が…訪れ」とありますが、この「訪れ」(ギリシア語;エピスケプトマイ)と同じ言葉が68節の「顧みて」と訳されています。最初と終わりに同じ言葉が使われるのは表現技巧としてよく使われます。主が訪れてくださったのだ、神は私たちを決して忘れてはおられない、と賛美したのです。 

神の契約と「私たち」

 そこでザカリヤはイスラエルの歴史を振り返り、神がダビデと結んだ契約(69節)、そしてアブラハムと結んだ契約(72〜73節)について語っています。そして、その約束が「救い」(69、71、74、77節)であることを明言します。そしてその「救い」は私たちに与えられて終わるのではなく、私たちを神の前に生きる者へと変えていきます。74〜75節「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」、とても美しい表現です。「きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える」が、主の「救い」の訪れがもたらす、すばらしい恵みです。

「敵の手」からの救い

 少し不思議に感じられるかもしれませんが、ザカリヤの預言は、「救い」を「敵の手から」「われらを憎む者の手から」の「救い」と言っています。「敵」とは、誰のことを指しているのでしょうか。イスラエルの歴史において、彼らを攻撃し、国の安泰を揺るがしてきた幾つもの国がありました。エジプト、アッシリア、バビロニア、ローマ帝国など。それらも確かに「敵」でした。そうした国々からの圧迫から、彼らは救われ、解放されることを確かに待ち望んでいました。でも、聖書が示している「敵」とは、もっと広く、神との関係から見る必要があります。聖書全体から考えると、イスラエルの民、あるいは私たちの、神との関係を遠ざけたり、否定したり、破壊していくもの、これこそが、すべて「敵」となるのです。そういう意味では、病気であれ、攻撃して向かって来る人たちであれ、様々な災いであれ、それらが私たちと神との関係を圧迫し、壊していくものなら、それが敵なのです。ザカリヤは繰り返し、「手」(66、71、74節)、という言葉を用いて、救いの現実を表現しています。この敵の「手」から救い出されて、主の「御手」を感じて生きることを可能にするのが、実に主の救いの訪れなのです。