「すばらしい喜びの知らせ①」

ルカの福音書 1:5ー25

礼拝メッセージ 2016.11.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,喜びの知らせは、まず主の前ぶれとして遣わされるヨハネの誕生として示されました

ユダヤの王ヘロデの時

 今回の聖書箇所は、バプテスマのヨハネの誕生予告です。ヨハネは救い主ではありませんが、「主の前ぶれ」という大切な働きを担う人です。その先駆け的存在の誕生は、カルヴァンの解説によれば「夜明け」の役割でした。つまり、このことは夜明けの予告ということになります。朝が早く来ないだろうか、と不安で眠れぬ夜を過ごした人や、病気になった人は経験されることですが、当時、ユダヤの民は夜明けの光を待ち望んでいました。というのも、長く暗やみの中に閉じ込められたような日々だったからです。
 5節「ユダヤの王ヘロデの時」という時代背景の表現は「皇帝アウグスト」(2:1)と並んで、この時代の暗い現実を示しています。「ヘロデ」とはヘロデ大王のことで、彼はユダヤ人ではなくイドマヤ人で、ローマ帝国に寄りかかりながら、権力を行使していました。古代の証言から、ヘロデ大王は残酷な人物として知られており、マタイ2章では幼児大量虐殺を命じた王であることが記されています。それと同時に彼はインフラ事業に精力的な働きをした人で、エルサレム神殿を大改築したことでも知られています。ローマ帝国の傀儡政権ではあったにせよ、こういう人が時の権力者であることは、多くのユダヤの人々にとって愉快なことではなかったでしょう。と言って、ローマの覇権が及んでいる状況で、他にユダヤを良き方向へ導いてくれる人もおらず、微妙な思いを抱いていたのかもしれません。キリスト降誕の時代はユダヤの歴史において重大な転換点にあり、危機的で先行きが見えにくい時代であったと言えるでしょう。案外、現代とよく似た時代状況だったのかもしれません。

祭司ザカリヤと妻エリサベツ

 5〜6節を見る限り、彼らが不幸な状況にあったとは見えません。ザカリヤもエリサベツも、ともに祭司の家系に属する人たちで、ザカリヤは祭司の務めを忠実に果たして暮らしていたようです。ところが、彼らにとって、残念でならなかったことは、子どもが与えられなかったことです。子どものことは、二人ともすでに年をとっていましたから、人間的には望みようもなかったのです。25節で子どもを授かったエリサベツは「私の恥」と述べていますので、子どもが与えられないということは、彼らにとってどうしようもなく苦しいことでした。
 ガブリエルは、ザカリヤの祈りを聞かれた(13節)と語っていますが、それは個人的に子どもが授かるようにという願いを彼が捧げたのではなく、むしろユダヤの民全体の祭司としての祈りだったと思います。誕生するその人は「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、…」「(人々を)主に立ち返らせ」「整えられた民を主のために用意する」人物です。
 祭司であった彼の祈りを思うとき、私は今の日本の状況と重ねて考えてしまいます。これからの展望、未来が見えにくい状態が彼らにはありました。年をとって、子孫や次の世代を生み出せないザカリヤ老夫婦の姿は、日本のこれからの社会や、あるいは教会の姿を象徴しているかのようです。次世代を育てる力がない、新しい人や救われていく人たちを産み出す力がないかのように今は見えるかもしれません。けれども、喜びの知らせは、私たちにも届けられているのです。神の深い熟慮のうちに立てられたご計画は、時が来れば神は必ず動き出して、救い主が来られる準備を、約束の言葉に従って確実に進めていかれるのです。後に、ザカリヤはヨハネの誕生を見て、預言的賛美を神に捧げました。「日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」(1:78−79)。


2,喜びの知らせは、神の初めからのご計画であり、必ず実現する神の約束です

ザカリヤたちに示される神のご計画

 彼は祭司として、「アビヤの組」に属していたと書かれていますが、歴代誌第一24章を見ると、祭司は全部で24組に分けられており、一組当たり祭司は数百人いました。当時、祭司は全部で1万8000名いたという推計があるそうです。各部族は半年に一週間ずつ神殿で奉仕していましたが、祭司の数が多かったので、個人にはくじ引きがなされました。一度くじに当たると二度とくじ引きをする機会は与えられませんでした。ですから、ザカリヤが神殿で香をたくこの機会は最初で最後のものだったと思われます。そんな貴重な機会が与えられ、聖所で奉仕をしている中で、主の使いが彼のもとに現れるのです。天使「ガブリエル」は、この後はマリヤに現れ、喜びの知らせを伝える者として記されている以外は、ダニエル書に登場するだけです。これ以外の時代にも現れたのかどうかは不明ですが、もし聖書に書かれているだけであるとすれば、預言者ダニエル以来で、500年以上ぶりの現れでした。
 喜びの知らせは「神の御前に正しく」、へりくだりの心を持って歩んでいた、目立たぬこの老夫婦にもたらされました。エリサベツはヨハネを胎内に宿して、喜びの告白をしました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」(25節)。原文は「日々の中で」という言葉が含まれています。一日一日と重ねられていく日々の間中、主は私に目を留めてくださってきた、という感謝の表現です。

すべての民に対する神のご計画

 バプテスマのヨハネの到来はイザヤ書やマラキ書に見ることができますが、この福音書からはダニエル書が意識されていることはほぼ間違いないと言われています。同書8〜9章でガブリエルがダニエルに現れ、預言を語るパターンと共通点がいくつもあるからです。ダニエル書には七十週預言(ダニエル9:24〜27)と呼ばれている箇所があります。詳細は諸々の解釈があるのですが、神の計画として「七十週が定められている」と書いています。七十週には、象徴的な意味が含まれ、この福音書の中では、文字通りの「七十週」間、つまり490日をキリスト降誕の中に暗示しているという説があります。ザカリヤとマリヤへの予告の間が六ヶ月=180日(1:26,36)、マリヤへの予告とイエスの誕生までを九ヶ月=270日、イエスの誕生から神殿奉献(2:22)までの40日で、合計490日=7×70(70週)です。いずれにしても、深い神のご摂理のうちに、この時代の、この時、この夫婦を通して、主の前ぶれとして、ヨハネを神はお遣わしになりました。それはすべての人々のための計画でした。