「しるしの要求」

マルコの福音書 8:11ー13

礼拝メッセージ 2021.3.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「しるし」とは何か

 「しるしの要求」と題された今日の箇所ですが、たいへん短くここだけを取り上げて説教されることはあまり多くないと思います。しかしこの箇所は詳しく考察すると、信仰とは何かという根源的問題を含んでいる大切なところであることがわかります。もし「しるし」となる何か証拠があれば、人はほんとうに神を信じることができるのか、という重要なテーマを取り扱っているからです。聖書の中に出て来る「しるし」という表現は、ことばの意味としては記号とか識別のためのマークのようなことを表す場合もありますが、「証拠としての奇跡」(参照;ヨハネ2:11脚注)を示し、今日の箇所もその意味で使われています。マルコの福音書で言うと、この「しるし」ということばはこの箇所で初めて出て来ました。例えば旧約聖書では出エジプトの時の「十の災い」も「しるし」と言われています(出エジプト4:17)。ダニエル書には「そのしるしのなんと偉大なことよ。その奇跡のなんと力強いことよ」(ダニエル4:3)と語られています。「しるし」は、「奇跡」「不思議」「力あるわざ」などのことばと並列して記されることも多くあります。この箇所では「天からのしるし」(11節)とあるので、13章で語られることになる終末に起こる黙示的な出来事、天体的異変や大規模な現象もここに含まれます。


2,「しるし」が現れたら信じるのか 

 この箇所では、まずパリサイ人たちが登場し、イエスに論争を挑み、「しるし」を要求します。イエスが語る神の国の教えが、本当に神からのものであると言えるのかどうか、神の権威に基づくものなのかを彼らは問いただし、挑戦して来たのです。パウロが「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」(Ⅰコリント1:22)と書いているとおり、彼らは「しるし」を要求しました。当時のユダヤ人だけでなく、現代の私たちも宣教やその働きにおいてなかなか思うようにいかず、人々がアッという驚くような奇跡が起これば、聖書の言う「しるし」が現れたら、もっと人々が教会に来るのではないだろうか、また伝道の働きは飛躍的に前進するのに、などと思うことがあるかもしれません。しかし、ここのイエスのお答えと同じように、聖書はそういう考えに対して全く否定的です。この福音書を最初から最後まで読むだけでも確かにその主張は明らかにされています。イエスが御力をもって、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出し、人々の病を癒されても、彼らのすべてが真にイエスに従う者となったかと言えば、全くそうではありませんでした。むしろ彼らは何も悟るところがなく、その御心を理解できないまま、イエスが逮捕されると散り散りになって去って行きました。ヨハネの福音書にはこう書かれています。「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」(ヨハネ12:37)。そしてマルコの福音書でもそれは同じです。エルサレムから派遣された律法学者たちがイエスの御業を直接見て、それで信じたでしょうか。いえ、そうではなかったのです。彼らは言いました。「彼(イエス)はベルゼブルにつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」(マルコ3:22)だけだと。


3, 神が与えられる「しるし」とは

 もちろん天からあるいは神からの「しるし」は全く人間に与えられない訳ではありません。でも、それが人間の側からの高慢な態度での「しるし」の要求であるなら、神は決してお認めにはなりません。なぜなら、それは信仰をもたらすことにならず、むしろ破壊するものとなるからです。反対者たちが仮にそれを見たとしても、様々な理由や言い訳を語って疑いを持ち続けるだけでしょう。それは主を試みる罪となるだけです。しかし神が与えられる自由な「しるし」は確かに存在し、それは人間に生きることの意味を問いかけ、その信仰を強めたり、深めていく働きをするのです。それゆえにこの箇所のマタイとルカの並行記事では、主は反対者たちの要求するような「しるし」は与えられないとしながらも、与えられる「しるし」があると言われました。それは「ヨナのしるし」です(マタイ12:38〜42等)。預言者ヨナが大魚の腹の中で三日三晩いたことから、「ヨナのしるし」とはこれから起こるイエスの十字架と復活を指し示すものでした。本日は教会暦では「棕櫚の主日」で受難週を迎える日ですが、主が十字架の上におられるときに、人々はどんなことばを投げつけたかを思い出しましょう。通りすがりの人たちや祭司長や律法学者たちは次のように言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」(15:31〜32)。それはイエスに対するひどい嘲り、悪口でした。しかし同じ場所にいた異邦人の百人隊長は彼らとは全く違った見方をしていました。彼はイエスの正面に立って、こう告白したのです。「この方は本当に神の子であった」と(15:39)。


4,イエスとともに信仰の舟に乗れ

 パリサイ人たちの頑なな心と霊的な盲目を知ったイエスは、ご自分の霊において深くため息をつかれて、こう言われました。「今の時代には、どんなしるしも与えられません」。直訳すると「もしこの時代にしるしが与えられるならば」となります。これはヘブル的な誓いの表現で、その続きが省かれています。続きは「(もしそれが起こるならば)私の上にどんな神からの罰が下されても構わない」となります。そういう非常に強い否定文なのです。これは絶対にあり得ないという断言です。イエスが御怒りを持って語られたことばのように思います。そして13節でこの出来事は閉幕します。「イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた」と。12節でイエスが言われたことばへのパリサイ人たちの応答は記されていません。けれども容易に想像がつきます。「どんなしるしも与えられません」と聞いた彼らはあざ笑いながら「それ見たことか、何も示せないではないか」と言ってイエスの無力を罵ったことでしょう。しかし13節はそんな嘲笑している彼らを置き去りにしてイエスは舟に乗り、向こう岸へ向かわれたと記します。これは彼らに対するさばきを暗示しているのでしょう。彼らは神の臨在を失ってしまった人々としてその場に立ち尽くすばかりです。けれども、私たちは主の十字架と復活の「しるし」を握りしめ、たといそれが不確かに見える弟子の道であっても、主とともに信仰の舟に乗り込み、向こう岸へ渡るべきなのです。