ルカの福音書 2:1ー20
礼拝メッセージ 2024.12.22 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1,神様が、イエス様をこの世に遣わしてくださった(1-7・11節)
ルカの福音書は、著者ルカ(伝統的にそう考えられている)がイエス・キリストについて、イエスの目撃者たちから聞いたことを順序立てて分かりやすくまとめあげたものです。その目的は、イエス・キリストの福音が確かなものであることを読者(直接的にはテオフィロ)に分かってもらうためでした。
そのために、ルカはイエス様のご降誕の経緯から書き出しています。この記事から分かるのは、第一に、イエス様の誕生は明らかに神様の御手の中で実現されたものであるということです。1章を見てみると、のちにバプテスマのヨハネと呼ばれるようになる人物の誕生の経緯、そして、イエス様の母マリアの受胎の経緯が記されています。どちらにおいても、神様がなされた奇跡の受胎です。
イエス様の誕生について、御使いが羊飼いたちに告げた言葉にも注目したいと思います。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです(11節)」。「主」とは、「主人」のことです。「キリスト(ギリシャ語:新約聖書)」とは、直訳すると「油注がれた者」。旧約聖書のヘブライ語では「メシヤ」が同義です。当時、王・祭司・預言者の職務に任職されるとき、その者に油が注がれる儀式が行われていました。つまり、現在は「キリスト=イエス」というように固有名詞化していますが、「キリスト」「メシヤ」は元来、王位についた人物などを指す普通名詞でした。ただ、神様は旧約聖書時代に預言者を通して、特別な「メシヤ」が必ず到来することを告げられました。それで、イスラエルの人々は、かつて神様が先祖たちを他の敵国から守り、祝福されたように、そのメシヤによって再び救い出してくださると期待し、預言された特別なメシヤの到来を待ち望んでいたわけです。過去の経験から、政治的な意味において大いに力あるお方をイメージしていたでしょう。人々の認識に勘違いがあったのは後々明らかになっていきますが、ここで御使いが羊飼いたちに告げたイエス様こそ「救い主」「主キリスト」だという知らせは、「神様が以前から預言しておられた、あのお方なのだ」という宣言なのです。はるか以前からご計画をお立てになってイエス様をこの世に遣わしてくださったのは、他でもない神様ご自身です。
2, 「この民全体に与えられる、大きな喜び」(8-14節)
イエス様ご降誕の記事から分かる第二のことは、神様は御使いを通して、この出来事を「大きな喜び」として祝福してくださっているということです。後になって、イエス様はイスラエルという特定の民の一時的な救いのために遣わされたのではなく、国籍を超えたすべての人の救い主として来られ、その救いとは永遠のいのちに関することであると明らかになります。そのことを人が本当の意味で理解できるようになったのは、イエス様が十字架で処刑されて、復活されてからのことです。
神様によって造られたのに、神様から離れ、裏切り、互いに傷つけ合う自分勝手な歩みをする私たち人間は、その罪を自分で償うことができません。だからイエス様が身代わりとなっていのちをささげ、償ってくださいました。そして、その復活によって私たち人間に新しい命を与えてくださいました。神様は私たちに、ただ「このことを信じるように」と願っておられます。
これまで、間違いを犯した人に対して「自業自得だから見捨てられてもしょうがない」と思ったことはあるでしょうか。私たちは、人を救うためではなく、責めるために批判することがあるように思います。しかし、神様は責め立てて責任を負わせるためではなく、救うために、一生懸命に「わたしのもとへ立ち返りなさい」「わたしを頼りなさい」と叱ってくださっていました。そして、愛するひとり子、イエス様のご降誕についてまでも、イエス様が十字架で苦しまなければならないことも含めて「大きな喜びの知らせ」として祝福してくださいました。ここにどれほど深い愛とあわれみがあるでしょうか。私たちは、この無条件のプレゼントを喜んで受け取りたいと思います。
3,告げられたことを知らせた羊飼いたち(15-20節)
御使いによってイエス様のご降誕を知らされた羊飼いたちは、告げられた言葉を信じて、急いでイエス様を探しに行きました。そして、自分たちが経験したことを語りました。この出来事が、確かに神様によってなされたことだと分かると、神様をあがめ、賛美しました。
お生まれになったイエス様は、時を経て、定められたその日に十字架で死に、復活され、天に上っていかれたわけですが、「必ず、もういちど来る」と約束されました。そして、「その日まで、イエス・キリストをあらゆる人々に知らせ、弟子とする」という使命を弟子たちに託されました。後に弟子となったパウロも、主イエスの十字架を思うたびに、「主が来られる日まで、主の死を告げ知らせる」ことを心に刻んでいることが分かります。
私たちも、イエス様のご降誕を覚えて、神様をあがめ、賛美しましょう。神様が愛を示してくださったイエス様のご降誕という出来事に思いを巡らせて、クリスマスを待ち望みましょう。また、かつてイスラエルの人々はキリストの到来を待ち望んでいたわけですが、私たちも主が再び来られる日を待ち望み、この方こそ主キリストなのだということを告げ知らせていきましょう。