「この世との関わり」

ヤコブの手紙 4:1-10

礼拝メッセージ 2019.3.24 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


戦いと姦淫の譬え

 3章の終わりの「平和」という言葉を受けて、戦いについて4章は始まります。両者はまったく対照的であることは、私たち自身がよく知っていることです。3章では神の意志に逆らう生き方の由来を自己中心に求められていましたが、4章では欲望に求められています。人間には欲望がありますが、それは私たちの生存のために必要なものです。食欲などが代表的に挙げられます。食べる物が不足すれば欲求が生まれるのは自然であり、それを失えば身体・精神を壊すか、死んでしまうこともあるでしょう。しかし、私たちはその欲求をコントロールできなくなることがあります。必要以上に求めてしまうのです。互いにそのような状況になれば、争ってでも獲得しようとします。一方、奪ってでも獲得している状態が当たり前になれば、それを守るために必死なります。個人レベルでも、家族レベルでも、社会レベルでも、国家レベルでも欲求を巡る争いは起きます。
 姦淫とは、元来は結婚関係以外の男女の関係を意味します。しかし、ここでは神を信じない人々との親しい関係を指しているようです。つまり、神が提示する価値観に生きていないこの世界の人々と親密になって、彼らから影響を受けてしまうことを言っているようです。神に敵対する人々の友人になることは、神の敵となってしまうのです。


この世界との敵対関係?

 ここで考えられているのは神を信じ従う人々とそうでない人々が敵対関係に捉えられていることです。確かに、神が良しとする生き方はこの世界の生き方とは違います。この世界では自己中心的であることが認められ、独占が奨励されます。強い者が優先される社会です。しかし、聖書の神は弱った人々を優先的に救おうとし、そのために分かち合うことを奨励します。聖書の神は人間関係を回復させようとしますが、この世界は人間関係を利用しても責められることはありません。ただ、教会やキリスト者と神を信じない世界とは敵対するだけの関係なのでしょうか?それは最後に考えてみることにします。


この世界の悪との関わり方

 この世界からの悪影響を除くためにどのような方策があるのでしょうか?ヤコブ書が勧めているのは、神に敵対する人々との関係を断ち切ることでもありません。むしろ、神に立ち返ることです。神が私たちのうちに与えた霊は、私たちが神に敵対する人々と親しくするときに嫉妬すると言われています。それは神が人間を追い求めていることを意味しています。それを恵みと表現しています。神が一方的に手を差し伸べています。人間はその神に応答するのですが、それは謙虚な姿勢として表れます。圧倒的な恵みの前では、それを素直に受け取るしかないのです。


この世界との関わり

 このように聖書には神に信頼しないこの世界に対する警戒の言葉を見ることができます。教会がそのような価値観に影響されてしまう現実があるからです。しかし、悪い影響があるからと言ってこの世界を敵対視してもあまり意味はなさそうです。そこには2つの理由があります。1つは、キリスト者になり教会に属していても、誰もがこの世界に生きていく現実には変わりはないことです。誰も世捨て人になることはありませんし、聖書もそのようなことは勧めてはいません。むしろ、この神を信頼しない世界に生きることを求めます。この世界に生きるとは、この世界の価値観抜きには私たちの生活も命も成り立たないことを意味しています。もう1つの理由は、神の福音は神を信頼しないこの世界に伝えられるべきものだからです。教会がこの世界を恐れ、自らに留まっているとするならば、誰も神の福音を経験することはできなくなります。この世界を避けるどころか、この世界に向かっていかなければ、人々は神に立ち返ることはできないのです。
 私たちはこの世界を罪に満ちた人々と断罪することではなく、その人々をさげすむのでもなく、また避けるのでもなく、神を信頼することを選び取るのです。この世界の影響を受ける恐れは承知の上です。それでも私たちはこの世界に生きていかねばなりませんし、この世界に神の思いを伝え実現していかねばなりません。この世界を毛嫌いするのではなく、私たちが神の意志に目を向け、神の意志が(教会を含めた)この世界に実現することを第一とすることが大切です。