「かえって福音の前進に」

ピリピ人への手紙 1:12-18

礼拝メッセージ 2023.10.29 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.福音の前進のために生きる(12-14節)

 パウロは、ピリピの教会の人たちにどうしても「知ってほしい」ことがありました。それは、パウロの「身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った (12節)」ということです。
 続く13節を見ると、その「私の身に起こったこと」とは、「投獄されていること」だと分かります。それは、「キリストのゆえ(13節)」のことでした。キリスト者に対する迫害のゆえに投獄されていたのです。影響力のあるパウロが取り押さえられたとなれば、他のキリスト者たちは恐れを抱いて、宣教を躊躇うようになりかねません。福音の前進どころか、衰退の一途を辿ることになってもおかしくないような出来事です。
 そのような中で、パウロがピリピの教会の人たちに知ってほしいと願っていたのは、先述の通り、この出来事が「かえって福音の前進に役立った」ということです。 14節を見ると、パウロが投獄されたことで、兄弟たちは「主にあって確信を与えられ」たというのです。そして、怯むどころかむしろ「恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました」。
 状況だけを見ると、パウロの宣教は失敗したと考えた人もいたでしょう。彼を捕らえた側は、これで影響力が衰えると思ったはすです。しかし、主は信仰者の生き方を用いて、福音宣教を前進されるお方です。それは、人の手で制御できるものではありません。迫害者たちの思惑に反して、かつてパウロから信仰の励ましを受けていた兄弟たちが、パウロの手を離れ、ますます信仰を宣べ伝えるようになりました。
 パウロが獄中で注目していたのは、「キリストが宣べ伝えられること」だったと言えます。それがパウロの人生の目的でした。だからこそ彼は、逆境の中にあっても福音が前進しているという主の御業を発見することができました。苦難においても目指すべきお方を見失うことなく、福音の前進に目を留めることができるとは、同という恵みでしょうか。
 私たちも、キリストが宣べ伝えられ、みこころが地上でなされることを祈りつつ、主の福音の働きに参加していきましょう。


2.敵対心からではなく、愛もって(15-17節)

 キリストを宣べ伝える人々の中には、善意から・愛をもってキリストを宣ベ伝える者もいれば、ねたみや争い・党派心から宣べ伝える者もいたことがわかります(15-17節)。
 パウロは兄弟たちの宣教によって福音が前進していることに感謝しつつも、教会内の問題にも直面していました。パウロの苦しみは、投獄されていたという実際的な状況の問題だけではなかったということです。たとえ外からの迫害が苦しくても、教会内での強い団結があれば、どれほど励まされたでしょうか。ところが、同じキリストを宣べ伝えようと熱心になっている兄弟たちの中に、パウロを苦しめようこする人だちがいました。
 考え方や立場の相違よって起こる党派の違いがすべて「党派心」ではありません。福音を否定していない限り、互いに尊重し、協力できる範囲において、共に宣教のために協力していけば良いはすです。しかし、互いに尊重し合うのではなく、パウロの宣教を妨害しようとしてキリストを宣べ伝えていた人たちがいました(17節)。
 内部で起こる争いこそ、パウロにとって最大の試練だったのではないでしょうか。直接的な迫害ではなくとも、剥き出しの敵対心や攻撃的な態度を受けていたことが想像できます。しかしそれでも、パウロ自身はそのような人たちのことを敵とは見倣していないことが伝わってきます。それは、パウロの生きる目的が「キリストを宣べ伝えること」だったからではないでしょうか。彼は、宣教の益となるために自己弁護することはあっても、それを第一の目的とはしませんでした。
 キリストの恵みを宣べ伝えたいと心から願うならば、仲間たちに理解されない苦しみを経験したとしても、それに対抗して彼らを敵対視しないようにしたいものです。そうではなく、愛をもって、目指すべきゴールを見失わないようにしましょう。そして私たちは、パウロの生き方に学ぶ以上に、群衆や弟子たちに理解されずとも彼らを愛し抜き、十字架の死にまでも従われたキリストの歩みに学び、従っていきたいと思います。


3.キリストが宣ベ伝えられていることに嘉びを(18節)

 「見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます(18節)」。パウロはキリストが宣べ伝えられていることに目を留めて、喜びを感じています。
 注意したいのは、キリストが宣べ伝えられていることについて、純粋な動機からではなくても「完全に良い」と言っているわけではないということです。コリントの教会の人たちに宛てた手紙の中では、「…たとえ山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです(Ⅰコリント13:2)」と語っています。パウロは、どんな善い行いも愛に基づくものであることの大切さを「愛がないなら、私は無に等しいのです」と語るほどに、重要視している人でした。しかし、それでもなおパウロはここで、純粋な動機からではない宣教さえも喜びとして受け取っているわけです。もちろん、愛は不要だとパウロが考えるようになったのではありません。困難な状況を主にあって乗り越える力をいただいていることが伝わってきます。
 そして何より、パウロの中心はキリストであるからこそ、人の行いの是非ではなく、福音の前進に注目して、自然と喜びが湧き上がってきたのではないでしょうか。本日の聖書箇所の後には、「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです(20節)」という言葉が続きます。私たちは、キリストのしもべとしてどんなことを願うでしょうか。私たちもキリストから目を離さすに、キリストがあがめられることを願う者であり続けたいと思います。