「いのちのパン」

ヨハネの福音書 6:41-59

礼拝メッセージ 2025.3.30 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


パンの意味

 ヨハネ福音書6章のパンのモチーフが使われ、イエスが語るパンの意味とイエスを取り巻く人々の理解するパンの意味との違いが、この章の最後まで続きます。イエスは自らを「いのちのパン」あるいは「天から降ってきたパン」と紹介していますが、ユダヤ人たちは物質的な意味でのパンにこだわります。ユダヤ人によれば、イエスは神から派遣された人物には見えませんでした。普通の人に過ぎなかったのです。


天から降ったパン

 イエスが語るパンの意味は、イエスは神によって選ばれて派遣され、いのちと復活をもたらします。それは神ご自身の証言なのです。ですから、父である神のことが分かれば、そのような人々はイエスの所に来るはずなのです。このように、これまでのヨハネ福音書で語られてきた、父である神とイエスとの関係が、パンという言葉によって再び述べられています。


聖餐の意味

 53節以下は、後の教会の聖餐との関係で理解されます。ここでは人の子の肉を食べ、その血を飲むことで命が約束されることが語られます。それを文字通りに理解した人々(イエスの弟子たちを含めて)は、この言葉に躓きました。初代教会の迫害においても、日本の教会への迫害においても、キリスト者は人肉を食べるなどという噂が流されました。このような噂は、パンというモチーフをパンそのものにこだわっている人々に重ね合わすことができるでしょう。


いのちのパン

 このユダヤ人たちの物質としてのパンのこだわりとは何なのでしょうか?第一に、イエスの約束は神を根拠にしていることに私たちは注目したいと思います。しかし、ユダヤ人たちはそれを理解しません。文字通りパンにこだわるのは、彼らの律法理解に通じています。伝統や信念への固執です。イエスは、63節で「命を与えるのは霊である」と述べています。霊とは永遠に残るものであり、神の領域に属しています。ユダヤ人たちがこだわり続けた肉(物質)であるパンは永遠には存続せず、神の領域には属さないのです。もちろん、ユダヤ人たちが神を知らなかったわけではありません。しかし、神が躍動感をもってこの世界に働きかける(霊として表現される)ということを忘れてしまったように見えます。目に見えるとは、人間の力で確認できること、そして揺るぎない自分たちの信念に通じます。これまでのユダヤ人たちの常識やそれで説明できること、それだけがユダヤ人たちにとって正しいことでした。イエスにとっては、そのような常識・信念・伝統だけが真理ではありません。否、人間が確認できるような事柄や、人間の信念である常識・伝統は命をもたらさないのです。ユダヤ人たちは命を得ようとして自分たちの信念にこだわりました。イエスは、神はそのようなことを超えて命を約束すると宣言しているのです。神が命をもたらすという点では、イエスもその弟子もユダヤ人も何ら不都合はないはずです。しかし、どのようにして神の永遠のいのちや復活がもたらされるのか、ここでは意見が分かれたのでした。
神は躍動をもって人々を救います。私たちの常識を覆す形でそれが実現するかもしれないのです。イエスが自らを「いのちのパン」として宣言したのは、ユダヤ人の信念・常識をひっくり返すものでした。そのような神だからこそ、イエスの時代に実現した救いの出来事は現代にも起きるのです。私たちは、私たちの都合で神の業のあり方を狭めてはならないのです。